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家紋のことをちょっと調べる

 紋章(もんしょう、Coat of Arms)とは、個人および家系を始めとして、公的機関組合ギルド)、軍隊の部隊などの組織および団体などを識別し、特定する意匠又は図案である。

紋章 - Wikipedia

  特に日本のものを家紋と呼ぶ。にんじんが調べたいのは日本の紋章である。

 

 紋のおこりは『伊呂波引定紋大全』(盛花堂)という紋帳の序文に述べられている。けれどもこれが専門の研究書に引用されることはほとんどないという。その説によれば、神代の昔、物品を交易する市を開いたとき、その物品が混ざらないように目印を付け始めた。Aさんが持って来たものには柏の葉を結び、Bさんなら蔦の葉を結ぶ。これが紋所(=紋章、紋)のはじまりである―――紋は人と物を結び付ける記号として発生したという考えはおそらく正解に違いない(家紋の話 (角川ソフィア文庫))。

 日本最古の模様は、いまのところ、縄文時代の土器だろう。縄文時代は-14000年~-1000年のあいだだっただろうとされている。独特の網目模様がみられる「縄文文化」の時代である。とはいえ、縄だけだったわけではない。粘土をこねて土器を作り、焼いてしまうまえに貝や魚の骨、植物、そして紐などを押し付けた。この頃にはもう自然を加工して人類なりのカタチを作るようになっている(施文具の誕生)。とにかく模様に対するこだわりはすさまじいもので、この頃、ほかの世界を見回しても類例がないほどである。これを一万年も続けてきたのだから、こだわり具合がすごい。土器と同時に土偶なども作られており、呪術的な意味合いがこめられていた。つまり単なる装飾ではなかった。なにかの記号だった。

 弥生時代縄文時代終ー2世紀頃)になると、弥生式土器がつくられるようになる。縄文時代の奇抜なデザインに比べると洗練された感じがするだろう。大陸との交流によって青銅器や鉄器といった技術がつたわってきた。しかしこの新技術が人々の生活を乱し、世が荒れてしまった。二世紀後半に邪馬台国が成立し、「銅鐸」が各地で一斉に埋められた。弥生時代にはやっていた銅鐸はこの時期に一斉に姿を消している。それと同時に縄文期から続いてきた模様のほとんどが消え、渡来した仏教美術が主流になった。

 やがて時は流れ、平安時代遣唐使の制度がなくなり、大陸風の模様が趣味にあわなくなってきた。仏教的な臭いも気になるというのでどんどんと形を変えて行った。彼らが好んだのは、自然の風景や木や草花、身近な鳥などの小動物だった。これらの模様がそののちの紋章の基礎をなすものとなっていく→公家の乗用車といえば「牛車」。当時も今の車事情と同様に、駐車場はごった返していた。どの牛舎も華美に飾られていて、自分の牛車がどこにあるかわからない。それで特定の模様を牛車に記すことにした。それが子や孫まで引き継がれると家との結びつきが強くなり、象徴となる。ここに家紋が生まれる。家紋は育てられ、徐々に形が洗練されていく。

 

 

 

家紋の話 (角川ソフィア文庫)

家紋の話 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:泡坂 妻夫
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫