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にんじんと読む「劣等感と人間関係(野田俊作)」🥕 第二章まで

第一章 健康なパーソナリティ

 「精神的に健康」というのは、身体がどのような状態にあっても実現できるのではないかと思う。要するに、身体の健康とはあまり関係がない。それじゃあいつもニコニコとしているとか、感情とは関係するだろうか。

 程度にもよるけれど、ニコニコしているのはいいことだと思う。でも怒ったり、悲しいのはちょっと違う。感情というのは相手を動かすために使われる場合がほとんどで、つまり相手を支配することと関係がある、とアドラー心理学では考える。そういう人はあまり精神的に健康とはいえないだろう。怒りというのは相手を動かす典型的な例である。憂鬱だとか不安だとかもまぁないほうがいい。そんな風に考えていてもどうせなにも現実は変わりゃしないから。たとえば電車に乗り過ごしたとしましょう。焦りますよね。でも焦っても電車は来ません。ゆっくりする時間ができたとでも思えばいい。でもそう言われても、やっぱりいらいらしてしてしまうだろう。でもそういう感情にはいつだって目的がある。感情はその道具なのだ。たとえばあなたの子どもが頭が痛くて学校にいけないと言っているとする。いつだって頭が痛くなってしまう。でも本当は学校に行かないことが目的だから、頭痛を直しても体は別の症状を作り出す。

 不登校の子どもたちのお母さんはよく学校とかのあり方を問題にしたりする。いじめがあるんじゃないかといったりする。要するに責任者探しをするわけだが、決して、今自分には何ができるかを考えようとはしない。言うことはいつだって責める相手を探すことばばかり。自分がいかにかわいそうで、誰それがいかに悪いかという話をする―――これも精神の健康と関係があると思う。責任者探しは精神的に健康とはいえないから。考えなくちゃいけないのは、自分がどうするかでしょ。

【にんじんメモ】

  • 「学校行きたくねえ」→「感情」→「身体症状」という流れになるわけだが、感情から身体のアクセスはよくわからない。どうやって影響を与えているのか? 唯物論的に答えるしかないのか?
  • 実情はむしろ、しかじかの身体症状が起きることを「感情」と呼ぶと思われる。だから「感情」=「身体症状」と表すほうが近い。だが体が熱くなり眉が尖り鼓動が早くなったとしても怒っているわけではない場合もある。怒りとは、相手をどうにかしてやろうどうにかしたいと意図することを含む。
  • その「意図」は、緊張の解消反応といっていいと思う。相手がそのようにすることは自分にとっての当たり前とズレている、だからあるべき場所におさめようとする。バレーボール選手は自分のところにボールが飛んで来たら、いつも例外なく、ボールを受け止めるわけではない。アタックされても、そのボールがエリア外に出れば放っておくものだ。この反応は全体論的なものであり、意図とはいっても「よし、〇〇するぞ」をいつも伴わない。しかし「機械論的な反応」とは異なる。熱い鍋に触れた時アツッといって手を引っ込めるのをやめることはできないが、外野に出たボールを取りにいくように方向転換することはできるからである
  •  感情は目的論的である。

 

 では健康な人というのはどういうものか。アドラー心理学では「共同体感覚を持っている人」という言い方をする。

  •  まず、健康な人間は自己受容をしている。これは自己肯定とは違う、欠点もある今の自分に満足しているっていうことである。自分のことが嫌いな人間は健康とはいえない。たとえばあなたが臆病な自分を嫌っているとしましょう。けれども、別に臆病というのは悪い面ばかりではない。つまり軽率な行動をしないということだから。また、たとえばあなたが自分の暗い性格を嫌っているとしましょう。けれども、それは陽キャのように無遠慮にずけずけと他人の土俵に入っていかない、相手がどう思うかを考える、感受性が強いということでもある。「僕の持っているハンマーはノコギリのようにものを切れないんだ」と言っているのではなく、「叩けるんだぞ」ということを知ることが大切なのだ。
  •  けれども、自己受容だけではいけない。世界信頼していることが大事だ。不信感に固まっている人はとても健康とはいえない。私たちは生きていくうえで他者がどうしても必要になってくる。だからお互いに協力することが大事である。相手を蹴落として自分の安全を確保しようとする競争へ向かう人は、絶えず自分も蹴落とされることを心配している。/世界に対する信頼は、信用とは違う。信用というのは銀行のように、ある程度の証拠があってお金を貸すようなことだ。信頼は根拠がない。根拠はないが、信じる。
  •  それから所属感ということも大事でしょう。家族の中に、職場の中に、この世の中に、自分の居場所があると感じていることは、もしかしたら生存よりも基本的なことかもしれない。そして自分に貢献感があるということも大事だ。自分がそこになくてはならないと思えること。これは所属感にも通じるだろう。

 そしてこういうようなことをまとめて、「共同体感覚を持っている」と呼ぶ。

 

劣等感と人間関係 (アドラー心理学を語る3)

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  • 作者:野田 俊作
  • 発売日: 2017/02/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

第二章 パーソナリティの形成

 アドラー心理学ではパーソナリティのことをライフスタイルというような言い方をする。性格とか人格とかいうと、なにか固定的な、変わりづらいことをイメージしてしまうから。そうではなくそれは「スタイル」だということを強調するためにライフスタイルと呼ぶことにしている。

 スタイルというぐらいだから、そのスタイルは実はあなた自身が決めている。あなたは自分が臆病で、人見知りで、根暗なやつだと悩んでいるかもしれないけども、そのスタイルを選んだのはあなた自身だということだ。まずこれが大原則になる。あなたはそのスタイルが自分のためになると思っていて、だから変えたくないと思っている。

 でもそれじゃあただ決断するだけなのか。「決断因」によってスタイルのすべてが決まるのかといえばそれはもちろんそうではない。遺伝とか、育児とか、そういったことの影響「影響因」がある。他にも〈器官劣等性〉、つまり生まれつき身体に障害があるとか、その後の生活に重大な影響を及ぼしたりする場合がある。両親や、きょうだい、家族の雰囲気、育てられ方、文化、等々……。

 不適切なライフスタイルの大部分は次のような三つの信念からできている。

  1. 自分には基本的に問題を解決する能力がない。自分は無能力であって、自分の人生の問題を自分の力では解決できないということ。
  2. 自分の保護者の立場にある人、自分が言わなくても援助する義務がある、助けを求めなくても私を保護しなければならないということ。
  3. もしも援助がないなら、その人たちは罰せられるべきだということ

  ライフスタイルは多様で分類することにはあまり意味がないのだが、大きくわけて三つ、ありうる。「依存型」「競合型」そして「自立型」。自立型は健康なライフスタイルといえるが、最初の二つはそうではない。

 (消極)依存型は自分に自信がなく、それゆえ他者は私を保護すべきだと考えている。保護をもらうために、保護してあげたいと思われるように仕向ける。そのためならなんでもする。世界は危険に満ちていると信じており、いつも不安でいる。他者の援助をあてにしており、他者に見てもらおうとし、無理ならねだり、それでも無理ならすねる。子どもっぽい服装や言葉遣いをしたりする。(攻撃)依存型は、他者は自分に奉仕して当然だと思っている。友達は作るが、相手が自分に何をしてくれるのかしか考えていない。人が期待に応えないと義務なのになぜそうしないのかと腹を立てる。

 競合型は自分に自信がないのだが、それを克服しようという構えがある。ただし条件付きで。積極競合型は常に他者よりも優れていようとする、成功しているときだけが唯一救われる。他人を蹴落とそうとするのはよくある。消極競合型は、失敗していないときだけ、唯一救われる。失敗しないかと恐れており、必要以上に良心的で身ぎれいだったりする。融通がきかない。臨機応変にふるまえない。感情的になることをおそれる。親しい関係にまで発展しない。両タイプとも完璧主義的で、他人からの尊敬を求め、軽蔑されるのに弱い。

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気