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にんじんと読む「実在論の新展開(河野勝彦)」🥕 第二章まで

第一章 カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論

 メイヤスーが批判するのは〈相関主義〉と呼ばれる立場である。

我々は思惟と存在の相関関係について接近できず、切り離して捉えられたこれらの項の一つに決して接近することはできない。今後、我々はそのように理解された相関関係の越えられない性格を主張する思想の流れ全体を相関主義と呼ぶことにする。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

  つまり、客観というものは主観から切り離して把握することができないという立場であり、主観というものは客観から切り離して把握することができないという立場である。これはまさに、カントが行った「転回」、認識論的主観主義である―――それは、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うという発想の転換だった。

 この相関主義はカント以後の哲学においても見られ、フッサール現象学においても、あるいはウィトゲンシュタインの言語論的転回にも見られる。そこでは、すべては意識されるものか、語られるものである。《すべての存在は意識と言語という透明なケージの中に閉じ込められている》(実在論の新展開 p20)。相関主義者は意識や言語によっては把握されない、「大いなる外」「絶対的な外」を失ってしまったのである。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 相関主義には弱いものと強いものの二種類ある。

  •  〈弱い相関主義〉とは、カントのように「物自体」の存在を認め、それ自体は知ることができないが思考可能だとし、物自体の理由律は否定するが無矛盾律は認める立場である。「認識(知ること)はできないが考えることはできる」というのは奇妙に聞こえるが、実際そうしているではないかとカントはいう。なにしろ、現象の背後に物自体が存在しないのに、現象が存在するはずはないからだ、と。この論証には無矛盾律が用いられている*1。しかしカントは理由律は認めていない。それは神の存在論的証明を理論理性によって行うことは不可能だという『純粋理性批判』の論証にあらわれている。理由律はあくまで現象界でのみ成り立つのだ。
  •  〈強い相関主義〉とは、物自体の存在を認めない。そもそも思考不可能である。

  強い相関主義は、「物自体」というものに理論的な不徹底を見出し、それを批判することで至った立場である。しかしメイヤスーによれば、考えることに対する自負を消失しはしたが、別にそれによって絶対的なものが消失したことにはならない。

 そこで彼は相関主義の「主観」と「客観」の繋がりを崩せる事実があるだろうと指摘する。それが〈祖先以前的な出来事〉である。私たちは一切の生命体が生まれる以前のこと、たとえば宇宙のはじまりや地球の形成などの出来事を理解しているではないか。だから相関主義は成り立たない、と。だが、とはいえ、祖先以前的な言明が相関主義を破っているとは相関主義者はふつう思わない。というのも、彼らはただ「人間にとってはね」と付け加えるだろうから。にもかかわらず、彼は祖先以前的言明は、相関主義を破ると考えている。

 彼は相関主義以前に戻ろうとは思わない。むしろそうした相関があり打ち破りがたいことを認める*2。また、カントのいうように、理由律があるとは思っていない。つまり、説明原理があるとも思っていない*3

 説明原理を用いて絶対的なものに接近しようとするのが〈形而上学的〉と呼ばれる。より一般に、絶対的なものに接近しようとする思惟全体を〈思弁的〉と呼ぶ。

 メイヤスーは相関主義者の形而上学批判を受け入れる。そして思弁的思惟によって絶対的なものに到達しようとする。思弁的実在論者にはいくつかの立場があるが、メイヤスーだけが相関主義を全否定していない。

 彼の立場は〈思弁的唯物論〉と呼ばれる。

  われわれは閉じ込められている。メイヤスーが突破したい〈強い相関主義〉はあたかもデカルトのような「一人ぼっちの独我論」ではなく「共同体的な独我論」である。これを打ち破るために、メイヤスーはどのような道をたどるのだろうか。

 

 彼は相関主義者の言うことを認めている。

  1.  われわれは相関関係にしか関われず、「それ自体」には関われない。
  2.  相関の事実性=相関の偶然性=相関の無理由性。

 つまりメイヤスーはこの「相関している」という「事実」を絶対的なものをみなす。われわれが考えようと考えまいと、相関しているのである。それには説明原理などはない。たとえばA,B,C……といったいくつかの基礎があって、それを組み立てて「だからこうなんだ」と行きつけるようなものではない。

世界の諸事物は、それが従う法則とともに、そのすべてが、理由なしに存在しているということ、これをメイヤスーは「無理由の原理(le orincipe d'irraison)」と言う。

実在論の新展開 p33

  この世界は論理法則、自然法則に支配されている。それは正しいが、この法則が成り立っているというのも偶然的なことで、そうなる必然的な理由はない。メイヤスーはこれを「原理」と見た。つまり形而上学者が絶対的に必然的な存在者を求める一方で、彼は絶対的な必然性を求めたのだ。この無理由の原理(=事実論性の原理ともいう)こそ、相関の外側にあって、われわれが考えようと考えまいとそうであり続けるものなのだ。メイヤスーにとってこれがデカルトの論証における〈神〉の役割を果たす。デカルトが神を使って数学的な自然認識を根拠づけたように、メイヤスーは無理由の原理を使って祖先以前的な言明の真理を基礎づけようとする。

 だが、無理由の原理はごちゃごちゃ複雑なカオスしか生みださないように見える。一体どうやってそんなことを成し遂げるのか。

 

 

実在論の新展開

実在論の新展開

  • 作者:河野勝彦
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本
 

 

第二章 カンタン・メイヤスーの偶然性の必然性について

 前章で見出した「無理由の原理」は、思惟に相関的ではない、絶対的な思弁的真理であるとメイヤスーはいう。つまり《世界の諸事物と諸法則、思惟の論理諸法則は、事実として理由なしに存在し、それゆえ理由なしに変化しうるというテーゼ》(実在論の新展開 p42)である。われわれはさまざまな事象についてその存在理由や原因を問うてきたが、究極的にはそこに根拠などない。しかし実際ボールを手から離せば重力によって下に落ちていくことは事実である。それは事実なのだが、それは無根拠、偶然であって、いつでも変わりうることなのだ。偶然性のみが必然的なのである。

私は何らかの実在性のための理由の不在、言い換えれば、何らかの存在者の実在のための究極の根拠を与えることの不可能性を「事実性」と呼ぶ。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

 誤解してはならないのは、メイヤスーが自然科学のこれまでの成果や、数学的言明のすべてを否定しているわけではないということである。それは事実として成り立っていると認める。しかし肝心なのは、そこに究極的な理由などはない、ということだ。「A➡B」という条件的な必然性を得ることはできるのだが、必ずなにかを前提しなければならず、われわれのてもとに入るのは条件的な必然性しかない。コレはアレが原因で起こる、アレはソレが原因で起こる……といった鎖の先に、端はない。

 メイヤスーのいう偶然性は、ヘラクレイトスのいう「万物は流転する」ということとは異なる。彼はヘラクレイトスよりももっと広く、物理的生物的諸法則・諸事物の一切が無理由なのだと言っている。そしてそれはそのまま存在し続けることもありうるし、存在しないこともありうるし、理由もなしにそれが可能であり、何かが新たに生み出されることも、まったく生み出されないこともありうる。

 

 しかしそれにしても、なぜ世界は安定しているのだろうか。いきなりボールが宙に浮かび上がってもよさそうなものだが―――次に答えなければならないのは、究極的には偶然性しかないこの世界が、常に変化せず、安定的である理由である。

  •  たとえばありうる世界のカタチをサイコロに書いて、それを転がす様子を考えてみよう。そのサイコロは何回振っても「今世界」が出続けるのだ。これはおかしいと思うのが普通の感覚である。メイヤスーはこれに対して、確率的な偶然性と諸法則の偶然性では次元違うことを指摘する。一言でいえば、サイコロには有限個しか目がないが、世界の形は無限にありうる。確率を計算するには全体を把握しなければならないが、この宇宙サイコロの目の全体に達することなど考えられない。サイコロの目で1ばかり出たらイカサマを疑うが、それは6回振ったら1回は出るだろうということを考慮して、「それにしては1が多いな」ということである。
  •  つまり「偶然的」でありながら「安定的」でありうる。同じ目が出続けているからといって、そこに必然的なもの(いかさま)を見出すことはできない。

 だが上のことを理解しても、私たちはなおこう訊きたくなる。「安定的でありうることはわかった。でも、なぜ実際安定的なんだ?」と。しかしそれに理由はない。世界がその偶然性によって安定的な形を保っている今のこのあり方も、次の瞬間には変わっているかもしれない。なんの理由もなく。

 

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

 

 

*1:もし物自体がないなら現象は存在しない。しかし現象は存在する。現象が存在せず、かつ存在することはありえないので矛盾。物自体は存在する

*2:なにが「それ自体」で、なにが「我々にとって」なのかを区別するのは難しい。これこそがそれ自体だと思っても、それが頭にのぼった時点でなんらかの加工が施されているかもしれないからである

*3:「なぜ?」に対する回答としてこれを使えば答えられるよという原理。原子みたいなもの。イデアなど