ヘレニズム時代とは、マケドニアのアレクサンドロス大王(前三五六-三二三年)が没した後、前三〇年頃に地中海一帯がローマ帝国によって統一されるまでの約三百年間の時期を指す。
この頃の思想は主には「ストア主義」「古代懐疑主義」「エピクロス派」の三つがあった。ここでは古代懐疑主義=ピュロン主義について扱う。古代懐疑主義はエリスのピュロン(紀元前360年頃 - 紀元前270年頃)により始まり、紀元後200年のセクストス・エンペイリコスの著作『ピュロン主義哲学の概要』において初めてその思想がまとめられる。
懐疑主義の基本テーゼ
(懐疑主義の基本テーゼ)
懐疑主義とは、いかなる仕方においてであれ、現れるものや思惟されるものを対置し得る能力であり、これによってわれわれは、対立する諸々の事物と諸々の言論の等しい力の対立(イソステネイア)ゆえに、まずは判断保留(エポケー)にいたり、ついで動揺のない心境(アタラクシア)に至るのである。Pyrrhoniae hypotyposes1.8
懐疑主義者は、アカデメイア派(プラトン発の学派)と非常に似通っていた。つまり次の二つのテーゼを共有していると思われていた。
- (第一テーゼ)何ものも把握不可能である
- (第二テーゼ)判断を保留しなければならない
二派の違いは、これらテーゼに対する態度の違いにある。アカデメイア派は第一テーゼを自らの見解として主張するが、懐疑主義者はそう主張はせず「探求を継続」するのである。セクストスはこう言っている。《人々が何か事物を探求する場合に、結果としてありそうな事態は、探求しているものを発見するか、あるいは発見を否認して把握不可能であることに同意するか、あるいは探求を継続するかのいずれかである》と。つまりアカデメイア派は把握不可能であることに同意するが、懐疑主義は同意するもしないもせず探求を続ける立場に立つということである。
※懐疑主義者の論敵は、ドグマティストと呼ばれた。それはなんらかの教義に同意する人々のことで、懐疑主義者とは対極に位置する。懐疑主義者はただ「判断をやめろ」と言っており、ドグマティストは判断することによって何かに同意する。懐疑主義と相対主義は似ているように思われるが、実のところ、相対主義者もドグマティストに数えられるだろう。なぜなら相対主義とは「相対的だ」という教義に同意するからである。
上の青字での引用は、他の学派と自分たちの違いを示している点で立場を明確にしている。しかし、これを理解するのは極めて困難であろうし、意味がわからないと文句もつけたくなる。両者とも「何ものも把握不可能だ」とはするのだが、
- それを主張しないとはどういうことなのか。
- 「探求を継続する」くせに「判断を保留」するのか。
(1)について。まず懐疑主義者は第一テーゼを認めてはいない。アカデメイア派は完全に否認し、把握可能であるという考えを完全否定するが、懐疑主義者は「把握されることもあるかもしれない」と言う。ここでも彼らは「ある」と言わないし、「ない」とも言わない―――こうだとすれば、(1)の問題はすぐに解決する。
だが問題は(2)である。判断を保留することについては上の「懐疑主義の基本テーゼ」でもはっきり述べられている。しかし一方では、「探求を継続する」などと言っている。この二つが一体どうやって両立するというのか、これは難問である。
探求の継続と判断保留の両立について
懐疑主義者における「探求」というものには二義ある。
- ドグマティストへの論駁
- 真理の探究
である。なぜかというと、①懐疑主義者のテクストに残る探求はほとんどの場合、ドグマティストが作り出したドグマを目的語とするからである。しかし②懐疑主義者も真理に出会うことを望んだ、と書かれた部分もある。この記述については「もう望んでいない」という解釈がされることもあるが、しかし実際のところ、先述したように懐疑主義者は、把握不可能ではないかもしれない、とも思っている。
懐疑主義者の「真理の探究」というものを探ってみよう。
「さてそれでは、われわれの主張によれば、懐疑的な生き方の基準は現われであるが、ここで「現われ」と呼ぶのは実質的には表象のことである。なぜなら、表象は、受動、すなわち否応なしの情態を成立の場とする以上、探求の埒外にあるからである。したがって存在するものがかくかくのものとして現れるということについては、たぶん誰も異論を唱えないであろうが、それが現れるとおりのものであるかどうかということは、探求の的になるのである。」
たとえば蜜というものは甘いものとしてわれわれに現われる。そのことは探求の埒外である。しかし「蜜というものは自然本性的に甘い」などと言おうものなら、探求の的になる。これはドグマティストへの論駁という形での探求に重なる。
だがこれと同時に懐疑主義者はこうも言っている。ここに論駁以外の現われとの関わり方があるのではないか。
現われについて語られることの探究と現われそのものを探求することは別のことである
「現われ」という概念はどんなものなのだろうか。
それは非常に多義的なものである。懐疑主義の基本テーゼにおいて語られる「現われ」については、
ここでは感覚されるものを意味しており、それゆえに、それと対比して思惟されるものを置くのである
と説明されている。これは「アイステータ(感覚されるもの)としての現われ」と言えるだろう。蜜は甘いものとしてわれわれに現われる。しかし蜜は自然本性的に甘いものだと語られる場合は、論駁の対象になるものである。
また、ドグマティストは「プロデーラ(明白なもの)としての現われ」という用い方をすることもある。彼らによれば、事物というものは「明白なもの(プロデーラ)」と「不明白なもの」のふたつに分けられる。プロデーラとはたとえば、「昼である」といったように、それ自身からわれわれの認識にやってくるものである。
しかしセクストスにいわせれば「それ自身からわれわれの認識にやってくるもの」というのは現われそれ自体ではなく、ドグマティストによって事物の側に押し付けられたものである。だからこれは「現われについて語られること」にあたり、懐疑主義者にとっては論駁の対象となるものである。
この二つの他にもまだある。「懐疑的な生き方の基準としての現われ」である。蜜の甘さだとかそういった事柄を越えて、現われというのは、法や習慣、「敬虔は善い」といった事柄も現われとして扱われるのである。こうした基準としての現われを懐疑主義者は破壊することはない。それは探求の埒外にあるのだから。
まとめると、
- アイステータとしての現われ
- プロデーラとしての現われ
- 懐疑的な生き方の基準としての現われ
があることになる。最初の二つに関しては、「現われについて語られること」に主に属するものであり、論駁の対象になる。そして三つ目はそもそも探求の埒外にある。そうすると、懐疑主義者が真理の探究を行っているというのは怪しく見えてくるが、そうではないという説もある。それが「観察」という概念である。
「われわれは現われに留意しつつ、実生活での観察に従いながら、思いなしを持たずに生きていく。というのも、まったく活動しないでいることはできない相談であるから。」
懐疑主義者であるセクストスは医者でもあった。医学上の経験主義は「観察主義」と呼ばれ、不明白な自然本性をもとに医術理論を打ち立てようとする「理論主義」と区別される。観察主義は記録することの積み重ねで法則が得られ、未経験のことについても「類似するもの」としてこれまでの経験を適用することができる、とする。
この現われの範囲内で行われる推論を「移行推理」と呼び、自然本性など不明白なものにまで影響を及ぼす「類推推理」と区別される。(おそらく)セクストスは移行推理のなかにおいては真理を探究することが可能だと考えていたのである。これを「現われとしての真理の探究」と呼んでもいいだろう。
この説は「あくまでも想定にとどまる」(p171 セクストス・エンペイリコスの懐疑主義思想―古代懐疑主義をめぐる批判と回答)けれども、根拠のないことではない。
- 現われのうちにとどまりながら(判断停止)、真理を探究することは可能である。
セクストスがはっきりと移行推理について明言していないのは、これが一つの「方法」としてドグマ化することを避けるためだったのではないかと考えられる。
アタラクシアという幸福
アタラクシアという無動揺の状態は懐疑主義の基本テーゼの最終局面である(もちろん彼らはアタラクシアを「期待する」に過ぎず、断言しているわけではない)。この無動揺の状態を目指したのは懐疑主義者たちだけではなく、「エピクロス派」「ストア派」なども「負」を除去し、無動揺or無情念に至ることを考えていた。
【エピクロス派】
エピクロスは快楽主義者として有名である。しかしその内実は「精神の動揺のない心境(アタラクシア)と身体の苦痛のない状態(アポニア)」を目指すという、われわれが想像するいわゆる快楽とは違っている。
彼はこの状態に達するためには理性の力が不可欠だと考えた。動揺を生みだす偽りの思い込みを取り除くために理性が必要であり、その心境に達するためには「知者」で泣ければならなかった。
【ストア派】
ストアは「自然に従って生きる」ことが幸福であり、人間にとっての自然とは理性であった。ロゴスに従って生きるとは、情念を捨て去ることである。情念とは思いこみによって生じた歪みから芽生えてくるものであり、たとえば金銭欲はお金は善いものだという思い込みから生じてくる。情念は「虚偽」を源としているのだから、知識によってこれを斥ける「知者」とならなければならない。
彼らと懐疑主義者が共通するのは、「動揺が判断によって生じる」「動揺を取り除くことが幸福」という視点である。しかし明確な違いもある。エピクロス派もストア派も自然本性を正しく認識することを求めているのだが、懐疑主義者にとってそんな風に認識された真理も結局動揺を引き起こすものとして扱われているということである。
懐疑主義者に対する批判としては次のようなものがある。
- そもそも幸福を人間の目的と見なすことのドグマ性
- アタラクシアを幸福を見なすことのドグマ性
- 懐疑主義をアタラクシアという幸福へ至る手続きとみなすことのドグマ性
- アタラクシアと「探求の継続」の整合性。つまりアタラクシアの状態に至ったら探求は継続する必要はないし、探求を継続するならそれはアタラクシアの状態にない。懐疑主義は「探求を継続する」のではなかったのか?
ドグマ性についての最初の三つの批判については「現われ」を武器に応えることができる。懐疑主義者が論駁するのは「自然本性」といったような普遍性を語られた場合であり、主観的に現れてきた「幸福は人間の目的」「アタラクシアは幸福」といったような二番目までの問題についてとやかく言われる筋合いはないのである。
しかし三番目はどうだろうか。アタラクシアに至る手続きを示してしまうのは明確な「基準」を示すドグマではないのか。しかし彼らは実のところ、判断保留によってアタラクシアに至るという手続きを必然的なものとは認めていない。それは偶然的なものなのである―――これは懐疑主義の弱点だろうか? そうではなく、懐疑主義をひとつの知識の形態であると見なそうとしていること自体がどうかしているのである。ドグマティストは知識というものは望ましいものだと考えており、その傾向ゆえに懐疑主義の主張さえもひとつの知識だと思っている。もしこの手続きがアタラクシアに至る必然的な道なのだと語るならば、懐疑主義者はためらうことなくそれを論駁することだろう。
四番目について考える前に、アタラクシアという事態を懐疑主義者がどのように考えていたかを見てみよう。彼らは判断保留を用いたとしても「不可避的な事物によって煩わされる」ことを認めている。たとえばいくら判断保留していようが、寒さには震えるし、喉も乾くのである。しかし懐疑主義者はそのような状況が自然本性的に悪いことであるなどといった余計なことを考えないので、この苦境を切り抜けることができるのである。《以上のようなわけで、懐疑主義者の目的は、判断に関する事物についてのアタラクシアと、不可避的な事物についての節度ある感情(メトリオパテイア)であると、われわれは言う》。
注意が必要なのは、判断保留するものとしないものがあらかじめ分けられているわけではないということである。いかなる物事であれ、まずは自然本性に関して判断保留をする。懐疑主義者はそのときにアタラクシアが生じる場合と、どうしても避けられない感情が残ることを報告したにすぎないのだ―――懐疑主義者が特異なのは、アタラクシアという理想的な状態とは別の状態があることをはっきり掲げ、「人間の弱さを認めている」という点である。
さて、アタラクシアの状態に至るのは第三点で見たように「偶然」である。そして懐疑主義者たるもの、諸々の表象が真であるか偽であるかいずれであるか把握しようとする(結局どっちともいえるので判断保留することになるが)。この把握しようとする欲求は、判断保留によって消え去るものとは言い切れない(アタラクシアに至るのは偶然だから)。ゆえに、懐疑主義者は終わりのない探求を続ける。
以上、「現われ」「偶然性」「メトリオパテイア」という武器による解決を見てきた。これによって感じるのは、懐疑主義者の幸福があまりにも弱弱しいものであるということかもしれない。だったらドグマティストのように夢ある一つの幸福に向けて生きるほうが幸せなのではないか―――そうではない。少なくとも懐疑主義者はそう考える。
「現われ」で見たように、懐疑主義者は「快楽が幸福!w」という現われに従って生きている人を攻撃したりはしない。彼は現われに従っているだけであるから、懐疑の射程には入らない。しかしドグマティストは「万人にとって」などと言いだす。だから懐疑主義者は叩くのである。しかしいくら叩かれても、ドグマティストは自分たちの意見のほうを贔屓にし、自らの見解を突き進む。懐疑主義にできることは「今はよくても将来もずっとそれで大丈夫と思ってんの」というオカン的な反論だけである。実に弱弱しい。
しかし懐疑主義者は人間の弱さを認めるが、その弱さが「自然本性的に」悪いことだとは考えない。懐疑主義は人間の弱さを出発点とし、そこにとどまり続ける。アタラクシアというオアシスはこれを見失わせてしまうのだ。懐疑主義者はアタラクシアを目的地としつつも、そこへの到着を度外視してしまうところに独自性がある。懐疑主義者は節度ある感情とともに、真理への探究を続ける。
再びアタラクシアとメトリオパテイアについて
繰り返しになるが「メトリオパテイア」という概念を強調するために、別の書き方をしてみよう。
「実在すると言われている善いものや悪いもののうちで、あるものは信念によって、またあるものは不可避的にもたらされる」
たとえば「富は本性的に善いものなのだ」という独断は、判断停止によって(偶然的に)アタラクシアがもたらされる。しかしながら、いくら判断停止しようが不可避的に訪れる寒さや痛み、飢えなどの動揺は避けられない。懐疑主義者はそれらの不可避的な事柄を悪だと考えたりしないという「節度ある感情(メトリオパテイア)」によって、心の状態を保つ。
不可避的なものとは、その人が生まれついた時代や文化・政治などの〈環境〉一般にいえることだろう(ジュリア・アナスが表現するところの「生活の環境」徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。人は自分の環境を選べない――——だが、この説明は厳密には間違っている。これではまるで不可避的なものがあらかじめわかっているようだ。実際はそうではなく、懐疑主義者はとにかく判断保留をし、そこから不可避的に残ってしまっているもの・動揺させてくるものを見つけるのである。
判断保留のための「十の方式」
「十の方式」は対置を提示しやすくし、判断保留をもたらすことが役割である。
対置とは現われの対置であり、ここでいう「現れる」とは感じられることに留まらず、思惟されることも含まれる。懐疑主義者はデカルトのように、たとえば蜜の甘さなどを心的イメージとして理解しているわけではない。現われの形成過程は云々せず、事物がどう現れているかに注目しているのである。
ある物事がどのように現れるかは主体だけではなく、それを囲む状況ないし条件に依存する。カカオ90%のチョコはふつうに売られているものよりよっぽど苦いものとして現れるであろう。懐疑主義者が論駁に用いるのは、広い状況に応じる現われの多様性であり「対置」は次のような形式で表現することができるだろう。
- Xは、条件SにおいてFとして現われ、
- Xは、条件S*においてF*として現れる。
- (FとF*は両立不可能で、SとS*は異なる条件である。
さて、次に対置を促す十の方式を見ていこう。:
- 動物相互の違いに基づく方式 同じ事物でも動物によって同一のものが受け取られるわけではない。しかも人間の受け取りが正しいとは限らない。ゆえにその事物が自然本来的にどうかは保留する。
- 人間どうしの相違に基づく方式
- 感覚器官の異なる構造に基づく方式 諸々の感覚は互いに異なっている。それぞれの諸性質だけをもつのか、実際は一つなのかはわからない。
- 情況に基づく方式 情況によって受け取り方が違うこと
- 置かれ方と隔たりと場所に基づく方式 いる場所によって感じ方が違うし、近づけば正しいとはいえない。
- 混入に基づく方式 受け取るにしても必ずなにかといっしょに受け取られるのでその事物がどうなのかはよくわからない
- 存在する事物の量と重宝に基づく方式 事物の本性はものの量と調合によって異なるものになる。
- 相対性に基づく方式 事物はほかのものとの関わりのなかであらわれるため、自然本来の事物の姿などわからない
- 頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式 同じ事物でもあんまり出会わないものだと驚き、よく会うと驚かない
- 生き方と習慣と法律と、神話を信じることと、ドグマティストの想定に基づく方式 特定の習慣ではこうであるといえても自然本来ではどうかわからない
(懐疑主義だから当然のことだろうが、この十の方式はすべてを網羅しているわけではないし、いつも対置をもたらすわけではないとセクストスは注意している)
対置によってわれわれはxが異なる現われ方をするのを見る。そして条件SとS*はどちらを優先すべきともいえないはずである。すなわち、「xが実際はFだ」などと肯定することもできないし、否定することもできない。
- ところで「xは条件SにおいてFとして現れる」という前提はいかにして懐疑主義者にとって前提とされうるのか。彼らは懐疑主義である以上、なにかを真だと主張することはないはずだからである。この点については、彼らの哲学が主に論敵の「治療」にあったことを思い出せばよい。つまり、彼らが論駁のために採用する前提は、すべて「論敵が持っている前提」なのである。もしそれが正しいならおかしなことになるぞと注意しているのであって、懐疑主義者自身がその前提を信じている必要はまったくない。
- また、上の論だと「判断保留が必然的に導かれる」とでも言いたげだが、実際はそんなことはないし、懐疑主義者もそんなことは考えていない。ここでも治療のメタファーが有効である。ドグマティストは対置を指摘され、アッと思う。そこで判断保留にいたることもあれば、抵抗を見せることもある。しかしいくら治療しようが、いつまでもドグマティズムへの道は残されている。たとえば「知識などない」という否定的ドグマティズムである。
参考文献
セクストス・エンペイリコスの懐疑主義思想―古代懐疑主義をめぐる批判と回答