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にんじんと読む「明確化の哲学(大谷弘)」🥕

序章 ウィトゲンシュタインを読む

 哲学とは世界観=あたりまえの検証であり、論証は理由の吟味である。理由の吟味には理論的体系的にその事柄を説明する「理論的説明」という方法がとられるが、ウィトゲンシュタインはそのような安易な一般化を拒否した。彼は「明確化」と呼んでいいような方法で、理由の吟味を行う。明確化とは、何を言っているのかまず明らかにしようということである。たとえば、「美人は得だなあ」という何気ない呟きは別になんの考えもなしに彼氏が言ったことかもしれないが、どういう意味なのか、一度はっきりしておいたほうがよさそうだ。そのような不明瞭な考えを前提にして「うらやましいなあ」と思うのは、「理由のない」ことだから。哲学は「よく生きる」ことに貢献する。

 

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

  • 作者:大谷弘
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

第一章 アウグスチヌス的言語観

 ウィトゲンシュタインの診断では、哲学的問題の起こる要因は「文の言語的意味」と「文で””言われていること””」のギャップに不注意であることである。

【事例】

 🥕 「紅茶を飲むのが楽しみなんですワ」

 🐳 「にんじんちゃん、冷蔵庫に牛乳残ってるけど」

 🥕 「いやいや、ストレートで飲むからいいよ」

 🐳 「そうじゃなくて、棚に牛乳がこぼれてるよって言いたいの」

  にんじんは冷蔵庫の掃除を頼まれていたのだった……。

 このとき、二人は「冷蔵庫に牛乳が残っている」という言語的意味を理解している。しかしその文で「言われていること」を取り違えてしまっているのだ。ここで重要なのは二人ともが「冷蔵庫に牛乳が残っている」という文について、その言語的な意味がわからないわけではないということである。つまり牛乳がなにかとか、冷蔵庫がなにかとか、そんなことは問題になっていない。また、にんじんがくじらさんの言葉の「含み」に気づかなかったということを問題にしたいのでもない(=「ちゃんと掃除しろやカス」という嫌味を受け取り損ねた、とかいう問題ではない)。

 問題は、言語的意味と””言われていること””のギャップである。ウィトゲンシュタインはこうした言語使用の現場に徹底的に着目する。これを「現場主義」と呼んでいいだろう。それを表すように、彼の著作『哲学探究』は明示的な前提から論理を積み重ねていくというやり方をとらない。問いをたて、架空の人物と対話していくのである*1

 

 哲学探究のはじめ、ウィトゲンシュタインはまずアウグスチヌスという哲学者が表明した言語観の引用からはじめる。それはアウグスチヌスが想像した言語習得のプロセスである。

アウグスチヌスは大人が物を指差して名前を呼ぶところを見たり、言葉を使うときの大人の表情や身体的振舞いから察知したりすることで、物の名前を覚えていったという趣旨のことを述べている。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

 このようなアウグスチヌス言語観は次のような不明確な「お気持ち」を導く―――言語における語は対象を名指す。文とはそのような名前の結合である―――このお気持ち(像)が、次のような考えを導く―――すべての語は意味を持つ。意味は語に割り当てられている。意味とは語が表す対象である

 

 不明瞭な「像」はいつも問題になるわけではない。われわれは普通、そうした曖昧模糊としたもののうえで生活を営んでいる。

 これが問題となるのは、

我々が像の要素に対し、知らず知らずのうちに典型的なその使用の状況を結びつけ、それを物事を把握するための絶対的な枠組みとしてしまうときである。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

  たとえばアウグスチヌス言語観においては「名前」という言葉が、名指しとともに語られている。「名前」というものは指差し確認できないものも当然含まれるのだが、それを指差しという「使用の状況」(「モデル」)によって解釈することにより、名前とは指差しできるようなものだという枠組みができてしまう。これによって、たとえば1や2といった数字が「コレだよコレ」といったように名指せるような想定が生まれる。日常的に経験されている世界から区別されたイデア界である。

 像に典型的なモデルがくっつくのが悪いわけではない。たとえば嫁に「リモコンどこ?」と聞いたら「机の上だよ」と来るだろう。あなたが机の上はるか上空一万メートルにリモコンがあると思うのは原理的には可能だが、典型的な状況と結びつけて机の面を見るに違いない。悪いのは絶対的な枠組みとしてしまうところである

 

 

哲学探究

哲学探究

 

第二章 言語ゲーム

 像ーモデルの絶対的結びつきが哲学的な「病気」なのだから、その「治療」はその結びつきを緩めることにあるだろう。すると治療法は大きく二つに分けられることになる。

  1.  異なるモデルを処方する
  2.  異なる像を処方する

 これがウィトゲンシュタイン哲学なのだが、少し立ち止まって考えてみれば、こんなことをするより理論によって何かを説明したほうがよいとはいえないだろうか。この疑問に答えるために、まずは「像ーモデル」と「理論」の違いに触れておこう。

 ここでいう「理論」とは、何らかの基礎的主張から問題物の主要な特徴をすべて説明する体系のことである。一方で「像ーモデル」はすべてを説明しようとなどしない。たとえば『言語の意味は実際の使用を見ればOK!』という像に対して、『買い物A』というモデルがあるとする。この買い物Aというのは、リンゴという紙を持って店主に見せると店主が紙を持ってリンゴというラベルの貼ってある引き出しをあけて持って来るというようなモデルである。ここではリンゴとはそのような使い方しかされない。しかし、これは明らかに「リンゴ」をすべて記述し尽くすわけではない。たとえばわれわれは「リンゴォ!」ということで「はよ寄こせや」というかもしれないし「リンゴが好き」というかもしれないから。

 以上より、なぜ「理論による説明」ではなく「像ーモデル治療」へ向かうべきなのかがわかる。それは言語実践が多様だからである。理論というのはある「像ーモデル」を絶対視し、そこから話を始めようとしてしまう。多様な使われ方をするリンゴというものを理論によって「はい説明終わり」とすることは普通ではないように思われる。

 

 ウィトゲンシュタインの「明確化」は、その後の推論のための準備ではない。というか正確には、彼が問題にしているのはそんなことではない。たとえば、

  1.  ソクラテスは男性である
  2.  ソクラテスは哲学者である
  3.  だから、哲学者は男性である

 という推論を考えよう。一瞬正しいかと思ってしまうが、それは①をソクラテス=男性と言う風に捉えてしまうからである。これを「ソクラテスが男性の集合に属する」というような形に表記を変えれば③の結論に至る心配はなさそうだ―――が、しかし、ウィトゲンシュタインが問題にしているのはそういうことではない。

 表記を変えて取り除けるようなことならそれでよい。彼の目的は「多様性を一括しようとする」哲学者たちのとらわれをほどくことである。この試みは多様性を一括しようとする哲学者がいる限りエンドレスに続く。像ーモデルの組み合わせはたくさんあり、そのひとつを誰かが絶対視するだけで彼は仕事をしなければならないのだから。

 

 

ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門

ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門

  • 作者:中村 昇
  • 発売日: 2014/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

ウィトゲンシュタイン哲学を学んでどうなるのか?

 哲学は「あたりまえ」=像を「明確化」によって吟味する。われわれの持っている多くの像は自分で選び取ったものに限られず、他人から聞かされて当然だと思いこんでいるものも多い。そうした像は吟味されず不明瞭なままで、特定のモデルと結びつき、根拠のない結論を引き出してしまう。

ウィトゲンシュタインの哲学は、我々が出会うこのような場面で、自身のコミットメントを見極める方法を教える。当たり前として現れる像に対して、それをいかに明確化し、自身のコミットメントに値するのか、値するとしたらどのような意味でなのか、といったことを吟味するやり方を我々はウィトゲンシュタインから学ぶことができる。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

事例:アウグスチヌス言語観

:言語における語は対象を名ざす。―――文とはそのような名前の結合である。

モデル:「名前」とは中くらいの大きさの固形物の名前のこと(机、ペン、東京タワー)

 われわれは「名前」と聞くと、指させるぐらいの大きさのものを考えてしまう。なにしろ身の回りにあるものは大抵名指せるのだから。雲もカーテンもスピーカーも「コレ」と言うことができる。だが容易に判断できるように、「名前」があるのはそれだけではない。

 たとえば「数」はそうした名前のひとつである。これは指させない。しかし先ほどのモデルに引きずられていると、なにか「心的な名指し」とでもいいたくなる。これがたとえば「数のイデア」とか「数はどこかに実在するんだ」とか言い出すきっかけとなる。

 

 

 この言語観にとらわれている人に対して、ウィトゲンシュタインは「それじゃあその通りの言語を考えてみましょう」と言う。その言語は二人の大工のための言語である。AさんとBさんはとある建物を建てており「台石」「石柱」「石板」「梁石」という四語を使用する。たとえばAさんが「台石!」と叫ぶとBさんがその石を運んでくるのである………。

 この大工の言語は一つのコミュニケーションのシステムを記述していると言える。たしかにその通り、われわれはそのような仕方でものの名前を使うことがある。しかし、それはコミュニケーションのごく一部であって、すべてではない。しかも、ごくごく限定的な領域での話である。とてもこれが「言語の本質」だとかいうほどのことではない

 ウィトゲンシュタインは「論駁」しているわけではない。「ほら、あなたのいう通りやりましたよ」といってみせて、相手のほうにその言語観が本質になるに値しないと気づかせている。

 

 

 アウグスチヌス言語像は「言葉の意味はコレという名指し」で、「コレっていうのは中ぐらいの大きさのもの」というモデルの上で成り立つものだった。

 だがリンゴという言葉を「🍎」と結びつける必要はない。他にもやり方がある。たとえば、ある商店の一場面を考えよう。あなたがその商店に「リンゴ5個」と書かれた紙を持っていくと、店主は奥の棚からリンゴと書かれた引き出しをさがし、中に入っていたものを5個持ってきてあなたに手渡すのだ。

 ここではリンゴという言葉の『意味』はなんなのか、といったことは一切問題になってはいなかった。店主はただ渡された紙の通りに、奥に入って何かを持って来ただけである。つまりむしろリンゴという語は店主にそのように働かせる言葉なのではないか?

 

 これが「言語=使用」説という新たな像である。アウグスチヌスに従う人は、新たな「意味」を見せられ、自分自身の像ーモデルが絶対的なものではないことに気づき始める。

 

 しかし所詮「言語=使用」説も像のひとつにすぎない。なぜなら「使用」とはなにかがいまいちよくわからないからだ。

 

 

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

  • 作者:大谷弘
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

事例:規則の問題

 アウグスチヌス言語観という像に対してウィトゲンシュタインが新たに持ち出した像は「意味=使用」説というものだった。これは言葉の意味がわかっているというのは、つまり、それを正しく使用できるということである、とする。だが、正しく使用できるというのはどういうことなのだろうか。それはたとえば「青のペンをとって」と言われた時に隣に置いてあった赤ペンをとってこないということでもあるだろう。もし赤色を持ってきたら、「青ってなにかわかってるか?」と言われてしまう。

 しかしこのような事例はどうか。

 あなたは生徒に「2を足す」ということを教えている。2,4,6…と進み、彼は1000までのテストに合格する。しかし1000に「2を足して」というと、1004と言い始めるのである。「何故2を足さないんだ」と訊くと、「いや、足しましたよ」と言ってくる。彼は「2を足す」ということを1000までは私たちと同じようにやるのだが、1000を超えるとわれわれにとっては+4としか思えないことをやるのである。しかし彼は大真面目である――――こんな生徒に出会ったとき、なぜ1000の次に1002と書かなければならないのか答えられるだろうか。つまり、1000の次に1002と書くのが「2を足す」ということの正しい反応の仕方だということが何によって決まっているのか、ということである。(「規則の問題」

だとすると、初項0の数列An=A_(n-1)+2という数式によっては数列のステップは決定されていないということなのか?

 このような問いにウィトゲンシュタインはこう答える。「問い自体に欠陥がある」と。どういう欠陥かというと、「決定」とはなんなのかが明らかではないというものである。

 この曖昧な「決定」について二つのモデルが考えられる。

  1.  クラスのみんなに授業を徹底することで、全員一致の答えを出すことが出来る(教育の問題)
  2.  y=x^2はyの値を決定するが、y≠x^2はそうではない(式の性質の問題)

 たとえば機械の動きについて「決定」を考えてみよう。Aという歯車が動くと、それと噛み合っているBという歯車が動くことは「決定されている」ように見える。このように言うとき、機械というものは完全にシンボル化されており、たとえば歯車の歯の部分が劣化していて回らないかもしれないということはそもそも可能性から排除されている

 だが、機械というものはふつう故障するし、工場長は故障の可能性も視野に入れて物を見ることだろう。だから工場長は「その歯車が回るとこちらの歯車も回らなければならないのだ」とは言わないし、「その動きは完全に決定されている」などとは言わない。このシンボルとしての「決定」と、現実の物としての「決定」を区別しないことによって問題が生じているとウィトゲンシュタインは考える。

 

 つまりどういうことか。あなたは「2を足す」ということで数列のステップが決定されているというとき、人々が全員一致の同じ答えを出すことをモデルとして決定を語っている。単にその体系のなかでは失敗の可能性が排除されているだけなのに、まるで失敗することがありえないかのような神秘的な仕方で「決定」が起こっているという結論を引き出してしまう。話題となっているのはあくまで記号体系のなかでの「決定」であり、そこでは人間の計算能力の限界は問題とされていない―――そもそも話題にすらなっていない。だというのに、限界を超えた「決定」とやらが働いていると考えてしまう。

 

 まとめよう。

 「2を足すと、1000が1002になることは決定されているんだよ」

 と語るとき、この決定という言葉の内実は明らかになっていない=どのモデルで理解すべきかは明らかになっていない。だから典型的な物理的決定(みんなが同じ答えを書く)というモデルで理解するのだが、そこでは初めから人間的な失敗など排除されている。しかし失敗がないことはそのモデルの上でのことにすぎないのに、そこに神秘的な何かを読み取ってしまう。

 すると哲学者たちはその神秘的な何かを認めるか、そんなものはないと否定して何も決定されていないんだという対立する二派閥しか選択肢がないように考える。だが決定というものを明らかにすればそもそもそんな問題は起こらない。

 

 あくまでシンボルとして語っているんですよ、ということを明らかにすれば神秘などはどこにもない。失敗しないのはシンボルだからである。普通人間は失敗する。

  1.  「計算と言う行為に関する人々の教育による決定」
  2.  「計算体系における変項の値の決定」

 という二つのモデルを示し、区別することで、神秘的なものは消え失せる。

 

 だがなぜ記号体系として1000の次が1002なのだろうか。ウィトゲンシュタインはこの点について「技術」で答える。つまり私たちはそういうように記号を使用する技術を習得しているのだということである。

 

 もちろん疑問も生じる。

 じゃあ1000に2を足すと1004だという人がいっぱいいて、「そういう風にやってるんですよ」と言われればなんでも正しくなるのか?

 この点についてはまた論じるけれども、われわれの言葉というものはわれわれ自身の生活を背景として成立する実践的なものであるということである。それを「計算」として成立させる生活背景が必要であり、どのようなことでもそれは技術なんだと言い張れば正しくなるということではない。

 

 

 

事例:相対主義

 ウィトゲンシュタインの正しさに関する見解は実践に応じて「なんでもあり」の相対主義になりかねないのではないか、という懸念がある。

ウィトゲンシュタインによると、「世界」、そして世界の中で成立している「事実」とは、我々の実践から切り離されて「とにかくそこにある」ものではない。また、科学の実践のみが特権的に事実を客観的に記述できる、と考えるべきでもない。事実とは多様な実践の中で事実についての判断を下す我々の技術において事実とされるべきものであり、世界を適切に認識するには我々は実践を「よく見る」ことを求められているのである。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

  たとえば「最初のアメリカ人はどこから来たのか」という問いに対して、ネイティブと考古学者は異なる答えを持っている。ラコタ族によると地下世界から現れた人びとこそがアメリカ人であり、考古学者によるとベーリング海峡を越えて約一万年前にアジアから渡って来た人が起源である。ちなみに考古学者のこの見解はDNA分析や科学的証拠によって裏付けられている。だがウィトゲンシュタインの言うことをそのまま受け取るなら、一概にラコタ族の主張を退けるわけにもいかない。なにしろラコタ族のあいだでは地底人が常識であり、そのように行動しているのだから。

 というわけで、ウィトゲンシュタインは次の立場にあるように見える。

真理の相対主義:どの信念が真理を表すかは実践相対的に決まる。

より正確には、

  1.  その信念の真偽は、何らかの実践の標準に相対的に決定される
  2.  どのような実践も同等にその信念の真偽を決定する権限を持つ

※1だけでは相対主義にならない。考古学者の実践を絶対視すればいいから。

 著者の考えでは、ウィトゲンシュタインは①を有益な哲学像として受け入れると思われる。彼はある信念が正しいかどうかは特定の実践においてそれを判定する技術によって決まると考えている。

 では②という像はどうなのだろうか。ウィトゲンシュタインはとんでもない実践をする人々をたびたび想像するが、彼らの事を「まちがっている」と言わない。たとえば彼は「底面積で薪を売る人々」のことを考える。ふつう薪というのは体積に応じて燃えるものだからそのあたりをちゃんと考慮して売るのがふつうだが、彼らは底面積だけはかってそのまま売り飛ばしてしまう――――「何が問題なのか」と彼は言う。

 しかしこのことはただちに彼が相対主義者であることを意味しない。

 たとえば「この薪の束Aとこの薪の束BだとAのほうが量が多い」という主張に対して、われわれは「そうだ」といい、底面積民は「いやBだろ」と言う。この主張は一見対立しているように見えるが、そもそも『量』ということで何を言おうとしているのかは自明ではない。本当に対立しているのかどうか、それは明らかではない。そして2つの主張の対立がないところに、相対性もない。サッカーで手を使ってはいけないが、ラグビーではいい、当たり前のことである。

 底面積で薪を売る人々がよくわからないのは、薪を売買するという活動のなかでその実践「底面積で売る」というところである。目的がわからない。ポイントがわからない。この「ポイントのわからなさ」はたとえば「甲子園の出場校はジャンケンで決めよう」という考えにもあらわれる。アホかよと思うが、それは「甲子園に出る高校には野球の実力を反映させる」というのがポイントとしてあるからである。

 そしてよくわからない人たちに対して「主張が対立している!」と言っても、本当に対立しているかなんてわかるはずがない。対立していないかもしれない。ここでたとえば底面積民は利益を得ることをポイントとしておらず、歴史的経緯によってそのようなことをしているのだと想像してみると、彼らのことがわかるような気がしないだろうか。

 

 しかし、

「だからラコタ族と考古学者の主張もよく考えなければならない。ラコタ族は宗教的観点からそのように言っており、考古学者は科学的観点からそう言っているのだから、対立はない」

 このように言われて、納得するやつはいない。「ほら、相対主義者じゃねえか」とさえ文句が出るだろう。もしこれが認められるなら、進化論と創造科学を同時に教えることになる。

 

 まず、ウィトゲンシュタインはポイントが異なる信念は対立しているとは考えない。「手を使ってはいけない」のはラグビーとサッカーで真偽が異なるが、そんなことは当たり前である。それと同じように、宗教的と科学的で為された主張は対立などしない。

 しかしもしラコタ族が証拠を持ち出して仮説やモデルを構成することをポイントとして持っているなら、DNA分析や遺跡データなどの強力な証拠を無視して「地下世界から来たんだ!」と言い張ることはできない。同じように、もし学校の授業が科学的知識を教えることにあるならば、進化論と創造科学をいっしょに教えるわけにはいかない。

 しかし一方で、ウィトゲンシュタインは宗教的実践を「遅れてるなぁ」などとみなすことには批判的である。なんでもかんでも科学の形式にあてはめようとするのは科学主義である。だが、ラコタ族が科学をやっているんなら地下世界から来たというのは間違いだ。

 そして薪を底面積で売る人々がもし「利益をあげたい」と思ってそれをやっているなら、その実践は「論理的狂気」である。そもそもそこでは信念が問題になっているのかさえもよくわからない、謎の活動であり、真偽がどうとかいう場合ではない。

 

 

この2点から、ウィトゲンシュタイン相対主義と距離をとる。とはいえ、彼は自分たちに理解できない実践を「イカれてる」と非難しはしない。むしろ不可解なものを理解しようとすることをわれわれに促す。

 

 

 

 

*1:ここにどうしても「論証」をくみ取ろうとする解釈を「論証解釈」と呼ぶが、その場合、ウィトゲンシュタインは自分の論理の整理もついていないひどい書き手ということになる。