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にんじんと読む「実践的知識の構造(菅豊彦)」🥕 途中まで

行為っていったいなんだろう

 運動というのは物理学などの科学法則によって因果的に完璧に説明されるように思われる。しかし、そうすると殺人犯が犯した罪もまた遠い昔に決まっていたことであり、彼には「責任」はないということになるのだろうか―――ならないと思われる。

 ウィトゲンシュタインは「手を上げる」ことから「手が上がる」ことを引いたらどうなるかと問うた。単なる身体動作と行為の違いはなんなのか。伝統的にはこれを意志に求めてきた。つまり「こうしよう」という心の内側のことである。しかし、これには問題点も多い。

  1.  「意志→行為」という風にまるで因果だというように説明しているが、これはおかしい。右手を上げる、左手を上げる、というのは意志のはたらきによるものだとしよう。しかしそれぞれを引き起こす意志Aと意志Bは区別ができない。区別をするためには「右手を上げる意志」「左手を上げる意志」というように「結果」に言及せねばならない。これは因果ではなく、ただの論理的な関係である。*1
  2.  朝起きて部屋の電気をつけるのは行為だろう。しかしリモコンを手に取ってボタンを押すことなどいつ意志したのか。駅まで行くのは行為だが、右足を上げることはいつ意志したのか。
  3.  意志がそのように自分の心のうちを見ることだとしよう。するとニュースで報じられているあの殺人犯が自分の意志でやったのかは完全にわからないことになる。彼の身体動作が意志に基づいていたのかを知るのは彼以外にないからである。
  4.  意志することに意志は必要なのか。もし意志することが自発的なものでないなら、そのようにせざるを得ないのであり、結局責任などないことになる。また、意志するのに意志が必要なら、その意志2はいつ意志したのか。意志3はいつ意志したのか。……と無限に続き永久に行為などできない。

 そういうわけで、二元論的な説明は徹底的に批判される。二元論は意識と身体を引きはがそうとするが、その主張とは裏腹に、彼らはモノを捉える枠組みを意識にも適用してかかっている―――これが間違いのもとなのだ。モノというのを状態や過程、出来事、原因、結果という概念で捉えつつ、意識もまたこれで捉えようとするが、そもそも意識の記述の大抵のものは「ディスコンポジショナルな概念」なのだ――――こう主張したのがライルなどの行動主義者である。

 ディスコンポジショナルな概念とはなにか。たとえば可溶性ということばを考えよう。白いとか丸いとかは見ればわかるが、可溶性というのは「コレ」といって教えられるものではない。いわば、写真に撮ったりはできない。Xには可溶性がある=もしXを水に入れるならXは溶ける、ということであり条件文を通して把握される。これがディスコンポジションな性質である。つまりある状況が与えられたならある仕方で反応する能力や性向のことだ。『意識はディスコンポジション的構造を持っている』と彼らは言う。それはもしかするときわめて複雑な条件文になるかもしれないし、大抵の場合そうだろう。たとえば「彼は将棋を知っている」というのは彼が何をどのように反応したときにそういえるだろうか。

 ライルによれば「彼は虚栄心に駆られて自慢した」というのは次のように分析できる。「彼は『他の人々の賞賛や羨望をものにする機会があればいつでも、この賞賛や羨望をもたらすだろうと自分が考えることならなんでもする』という疑似法則命題を充たしている」と。つまり虚栄心というのは心の状態とか過程とかを指しているのではなくて、こういう条件ー反応の複雑なパターンを表しているのだ。

 意識というものが写真撮影できないのは「ココロなどというものの内側にあるから」ではなくて「条件ー反応」だからである。しかし行動主義にはいくつか問題点も指摘されている。二元論と行動主義は真っ向から対立しているように見えて、実はある前提を共有しているのである。

それは意識を表す表現や文が対象や状態を記述し、描写するものであるとする描写主義の前提である。

実践的知識の構造―言語ゲームから

  エッそういうものじゃないの、とも思える。これに対してウィトゲンシュタインはこう批判している――――私たちのそれぞれが箱を一つ持っていて、その中には私たちが『カブトムシ』と呼んでいる何かが入っている。しかし誰も、他人の箱を覗くことはできず、人は自分のカブトムシを見ることによって他人のカブトムシがなんたるかを知る。もしこのカブトムシという言葉に一般的な使われ方があったとすると、箱の中身がなんであろうが関係なくなってしまう。

 つまり「痛み」というのがカブトムシである。人は自分の痛みだけを痛み、人の痛みは自分の痛みで理解する。というわけで他人には絶対に自分の痛みはわからないはずなのだが、ふつう痛みというのはごく普通に使われている。もし痛みというのが何らかの状態を表すもの(カブトムシ)ならば、それがごく普通に使われているということはその慣用と私の箱のカブトムシはなんの関係もないことになる。

 もし痛みというのが条件文だという用い方をしろというなら、私たちがいま感じている「痛み」というものは考察には全く含まれていないことになる。「痛い痛い! と泣く」ことと「痛み」というものを切り離すことに問題の根がある。描写主義は「痛み」というものを痛いときの振る舞いに置き換えてしまうが、もはやそこには実際の体験や感覚などは問題とされてはいない。「私は~するつもりです、と述べること」と「意志すること」は異なる。これは明らかなことであるのに、行動主義はそうは考えないのだ。

 

 

 

第三の選択

  •  二元論者は、理解するとか知るとか意志という言葉を身体から区別される意識の作用や過程をあらわすと主張する。
  •  行動主義者は、意識というのは条件的構造をもつと主張する。つまり作用や過程ではないという。

 「意識の概念」を一人称に求めるか、三人称に求めるかに相違がある。しかし両者は言語と意識と分離してしまう点で共通する。つまり、言語と意識はそれぞれ別の世界の話で、言語というのは意識の状態を描写するのだという描写主義である。ウィトゲンシュタインはこれを批判して、当の意識そのものが考察から抜け落ちると言ったのだった。言語が思いを写し取るというような思想と決別すれば問題は解ける、と彼は言った。

 「描写する」「記述する」というのは、たとえばボールが転がっているときにそれを絵にしたりボールが転がっているなと言ったりすることである。このような物理的対象についてうまく働くことばを、意識作用にも適用しようとするところが困難のはじまりである。意識作用をそのようなモデルで扱うことを忘れ、「痛み」というものをよく見てみよう―――どのようにして一人の人間が感覚の名前の意味を学ぶのか?

 子供がけがをして泣く。親が来て「痛いの?」と言う。子どもはそのうち「痛い!」と叫ぶようになる。成長してくるとたいていのけがでは泣き喚かない。お医者さんに「頭が痛むんです」と言ったりする。ここでは『自然な感覚の表現(泣き喚く)』ことが「痛み」と結びつけられ、やがてその代わりをするようになるのである。

 それじゃあ痛みの意味は振舞いだといっているのか?

 そうではない。痛いという言葉は、泣きわめくとか自然の表出が果たしていた機能を引き受けるのだ。それはその表出が周りの人々に引き起こしていた反応と同様のものを引き出す記号である。

 

 

 

*1:「Aが原因としてBが起こる」というためには、AとBは独立しており、その繋がりは経験的でなければならない。既婚者であることは、その人が結婚していることの原因ではない。