当たり前と当たり前でないこと
たとえば対人恐怖症だとかいって、それぞれの神経症に名前を貼ることは彼の性格を固定的にする。実際のところ、われわれは対人恐怖症であることもあればそうでないときもあるのだ。神経質の人は自分の悩みを特別なものだと考えているが、「神経質な人」という言い方すら、不適切なものでありうる。なぜならそのような情態は誰しもあるもので、特別にそれに悩む人は他者よりもその頻度が高いにすぎないから。
我々の支配できないことは数多い。天気はもちろん、自分の健康でさえ。そしてまた感情も支配できない。たとえばゴメンナサイと口には出せても後悔の念だけは手前で製造するわけにはいかぬ。森田療法の教える所、これらのことをどうにかしようともがくのは無駄である。恐ろしいときは恐ろしく、悲しいときは悲しい。いつも幸福感を持ちたいと望むのはとうてい叶わぬことだし、不自然なことでもある。
これを別様に言い換えれば、「不安をなくせばシカジカできる」と考える必要はないということでもある。飛行機に乗るのが不安でも、飛行機に乗ることは可能である。我々の唯一支配できるのは次の行動以外にはないのだ。逆に、あらゆる感情は常に変転する。ほんの少し待ったり、手遊びをしたり、行動に取り掛かったりするうちに、簡単に変わってしまう。
アメリカから日本に輸入された考え方がある。「自信がなければ何もできない。自信がないのは愚かだ」がそれだ。誰しも自信をつけるように努力しているが、自信もまた、支配の外にある感情である。内観療法の教える所、あらゆるものはすべて自分で生み出したものではない。目の前のたったひとつのものに観察されるあらゆる背景や、文化共同体に依存的に成長してきた自分。