にんじんブログ

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【エッセイ】傷つきやすいvulnerable存在

 「人はみな善く生きようとする」たしかに。しかし善いとは抽象的な善なるコトではなく、まさにそのようにするコトである。わたしが朝に牛乳を飲むのは、それがわたしにとって善いからである。すると、なるほど、善く生きようとしない者はいないわけだ。だがならばなぜ、善さの問題はここで終わらないのか。それは「好ましい」という言葉との差異にあらわれる。わたしたちはわたしたちの善をわたしたち以外からも知るし、善はつねに発達し、形を変えるからである。

 善く生きることはEudaimoniaと呼ばれる。これは幸福とも訳されるが、特に「人間の」ものである。より広くはflourishingという。これは開花とも訳される。生きるということは、常にこれを妨げる受苦に見舞われるという傷つきやすいvulnerable存在であることだし、中にはそれを短期間ではなく、一生にわたって受け続ける者もある。倫理学に登場する主体が傷つきやすさという生の特徴を忘れて、自らはまるで傍観者のように観察していることを指摘したのはマッキンタイアだが(依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス))、わたしたちも動物のなかの一種なのだということを倫理学の出発点にすることはわたしたちのぼやけた視界を明瞭にする助けになるだろう。

 ピュロン主義者は判断保留をすすめ、ただ現われに従って生きよと教えた。だが、それは探求をやめてしまえということではない。言葉はなんのためにあるのか。いろいろな答えがあるだろう。たしかだろうと思うことは、それはわたしたちを当の現われから一歩引き離し、ほかの善に目を向けさせる手助けをする。ひとりの画家は画家として成功するために外国へ発たねばならないときがあるが、彼は同時に父親でもありうる。