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にんじんと読む「幸福論(三谷隆正)」🥕

西洋哲学史 (教養全書)

幸福論 (岩波文庫)

アラン 幸福論 (岩波文庫)

 

第一章 幸福論の歴史

ソクラテス学派

 紀元前399年、アテネソクラテスが刑死した。彼は誰のことも弟子とは呼ばなかったが、彼を師と仰ぐ者たちはソクラテスの亡きあと、彼を理解することを目指した。ソクラテスは言った。「徳は即ち知なり」と。彼が輩出した哲人で有名なのはプラトン、またそれに続くアリストテレスである。しかしこの他にもある。

  1.  エウクレイデスを始祖とするメガラ学派である。これは先ほどのソクラテスの言葉を受けて、知・理というものに偏した一派である。しかし岩崎武雄によると、この学派は次第になんらの積極的主張ももたずにただ詭弁をもてあそぶようになっていったという(p41 西洋哲学史 (教養全書))。
  2.  そしてアリスティッポスを祖とするキュレネ学派がある。これは善というものを徹底的に重視した一派である。一切の問題はすべて善に帰着する。あらゆる理論も善に奉仕しなければ意義をもたぬ。善はすべての人が求め、また喜ぶものである。善は快である。そのうちでも現前現実する刹那的な、肉体的快である。なぜなら人びとはたとえその先に快楽があるとしても苦痛があるならば忌避するものであるから。いわば享楽主義である。
  3.  そしてアンティステネスのキニコス学派、あるいは犬儒学派である。彼等によれば徳こそが絶対的なものである。有徳である=幸福である。徳がこのようなものであるなら、幸福のためには一切の欲望を捨てるのが大事だ。すべての欲望から解放されなければならない。快楽は否定され、苦行が重んじられる。というわけで、キニコス学派の人々は「犬のような生活」を送るはめになった。

 メガラ学派はともかく(他にもエレネ学派があるがさして意義をもたない。西洋哲学史 (教養全書))、キュレネ学派とキニコス学派は時代を下るにつれ学派内部においてもより正鵠を得たものにしようとする動きがあった。それぞれはやがて「エピクロス学派」と「ストア学派」の主張に接近してくるのである。

 

エピクロス学派ストア学派(&ピュロン主義)

 エピクロス学派は、幸福を人生の目的とみなしその内実を与えようとする。即ち幸福とは快楽である。この点はキュレネ学派と変わりはない。しかしそこで求められるのは刹那的な快楽ではなく永続的な快楽である。刹那的快楽は逆に苦痛を呼ぶこともある。永続的な快楽を得るためには、快楽を追求するのではいけない。快楽を追及して満足されなければ不愉快だし、悪影響もある。そうすると、重要なのは苦痛を感じないこと、すなわち「精神の平静」(アタラクシア)と「肉体の無苦」が大事になる。

  •  ところで、エピクロスは「死」という私たちを悩ませる問題をあっさり解決する。つまり肉体というのは原子(正確には現代の意味とは違う。最小単位)から成る。その離散が死である。まず死とは単純にそのようなものであるし、実際死ぬときには離散したときだからもう自分というものはない。だから安心せいという――――この論法は到底納得できるものではないが、ここにみるように、エピクロスが理論を用いるのは不快を取り除くためである。アタラクシアに至るために理論はあり、国家など社会も、不快をなくすか、小さくするためにある。

 ストア学派は、キュプロス島にいるゼノンによって創始された。彼等も幸福を人生の目的とみなす。そしてその幸福のありかは「無感情」(アパテイア)にある。ではこのアパテイアにはいかにして至るか。曰く、この世界には一定不動の理性があり、すべてのものはこの理性に支配されている。われわれの生活もまたこの理法に従っておこなわれなければならない。これを自然にかなう生活という。学問はこの理法を研究し、唯一の一定不動の真理を明らかにし、それに従った生活ができるよう指針を与えるものでなければならぬ。そうした生活がまさに「徳」である。ストア学派にとってこれ以外のものはすべて無価値である。

 また、この同じ頃、ピュロン主義と呼ばれる哲学も大きく取り上げられた。その事情は別の記事にある。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

エピクロス学派ストア学派の共通点

 これら学派の共通点は、幸福主義の哲学ということである。もちろんその内実は大きく異なる。ストア学派の人々はエピクロス学派を公然と軽蔑していた。一方は快楽をよしとし、一方はよしとしない。対極的な立場だったからである。

 しかし二つの哲学はその根底において似ている。これら哲学はきわめて主観的なのである。彼等の哲学的関心は「我」のみにあり、外にはないのだ。プラトンアリストテレスも「理性」に重きをおき、観念論の哲学体系をギリシャ哲学に咲かせたが、これを徹底的に偏したものがエピクロス学派ストア学派という両翼であった。その極端な立場が純粋理論というものを軽視したのは当然のことで、学問は実益に帰さなければならないのだ。幸福でもっとも肝心なことは、外的なわずらいから完全に離脱して、まったく自立した境地にいたることである。ストア学派にはこれは見やすいが、エピクロスも刹那的快楽をわずらいとみなし、理性によって深く考え、自らの生活を設計するように促した。

 しかしこのような孤高の自給自足生活は人の人生を豊かにしない。

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

第二章 幸福とは何か

自己内在論(主我幸福論)

 アリストテレス曰く、幸福とは所持ではない。つまり何かを手に入れたり、しかじかの環境にあるということではない。幸福とは活動のなかにある、働き為すことにある。しかしただ活動すればいいというのではもちろんない。人間としての幸福は、人間らしく活動するなかにある。人間らしい働きとは、理性の働きである。ところで徳は知である。ゆえに人間らしい幸福は有徳な活動のうちにある。有徳な活動は数々あるのだが、そのうちでもっとも完璧なものは、知的観照である。それは純粋なる理性の働きであるから。

 この結論はストア派と一致している。この理性偏重と、それによる知的観照が幸福なんだという結論はギリシャ哲学の特徴であり、必然的な結論である。しかしアリストテレスはここに但し書きをつける。

  •  すなわち、「所持」が幸福の条件として重んじられることがあるのは、否定しないのである。もちろん豪奢な生活がわざわいの種になることはあるけれど、それ自体としてはいいもので、このいいものをまったく欠いたような生活は人間としての生活とはいえまい。
  •  では快はどのように扱われるか。快は人間らしい活動にともなって自然に生じる結果である。有徳な行動にはよろこびが伴う。しかしそれが至上の善であるわけではない。ただの添え物である。
  •  この添え物という点に関しては、「所持」もまた変わらない。両方とも重んじられるべきことではあるが、幸福の本体ではないのだ。

 アリストテレスの主張は、納得のいくものである。快楽が幸福本体ではないのはもちろんだが、それと同じぐらい、よろこびのない幸福などありえないように思える。だから幸福を考える時に「よろこび」をまず置こうとする考え方も理解できないではない。きわめて自然な発想である。とはいえ、そうした主観的問題を幸福の本質だと考えるのは間違っている。こういうものを「自己内在論」と呼ぶのだ。自我が外物に妨げられることがなく自由自在であることが幸福であるというのは、幸福主義哲学に共通の根本である。しかしまさに不幸なことに、自由自在であることなど絶対できない。するとどうするかという問題が生ずる。それは外物から離脱するしかあるまい。現実からどのように「離脱」するか? この言葉をどう捉えるかによって、哲学は枝分かれしてきたといっていいかもしれない。

 しかしあらゆる外物を引きぬいて残るものとはなんだろう。それは恐るべき内容の無さ、貧しい生活内容である。自己内在論的に考えるのは幸福の自殺である

 

自己超越論(没我的幸福論)

 アリストテレスが言うよろこびは、活動のなかから自然に生ずる。その活動は理性を用いた有徳な活動である。これは刹那的な欲情を戒めるのと同時に、おのれひとりに囚われることのないように要望する。人生のよろこびというものは、ただむやみに自分のやりたいことが成就することではない。活動には本来の目的がありそれによって規定せられ統制されている。その働きを阻んで得られるおのれのよろこびなど空しい。よろこびとは、活動が合目的なる軌道をそれることなく働くことに伴う。

 そこでわれわれは「そもそも人生の目的とはなんなのか?」という問題に突き当たる。その目的として自分というものを与えることが間違っていることはこれまで見てきた。つまりなんらかの他者であるが、この他者とは人格的なものか、非人格的なものか。これを国家とか、文化とか、そういったものに与えるのは間違っている。

いのちの目的はまたいのちでなければならぬ。人生の目的は知識ではない、芸術でもない、もちろん富ではない。人生の目的は事業や業績ではない。それらはいのちの結実であってその目的ではない。目的は生々溌剌としていのちあふるる者でなければならぬ。それ自体がいのちの主体たる者でなければならぬ。人生の目的をいのちの主体たる活ける人格者以外に求めるのは、根本的に間違っている。幸福の秘訣は己を超えていのち溢るる或る人格的他者を発見し、これを補え、これにおのれを捧げ切ることである。かれのうちにおのれを没しておのれなきに至ることである。

幸福論 (岩波文庫)

 

 

  このあとは「超越神」がどうとかいう話になってしまう。ここで終わり。