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インターネットが奪うもの

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネットのバカ(新潮新書)

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

 

インターネットが奪うもの

まえがき

 私たちがウェブ・ページを見る時、視線の動きはおおよそ「F」の形をしているという。即ち、まず表題を見る、最初の数行を読む。それからいくつか飛ばして中身の数行を読む。終わり―――もう私たちは次のページに行ってしまっている。

 ……というわけで、ここに訪れる皆さんの多くは恐らくこの文から先は読んでいない。どういうものが読まれるかはわかる。①バカ、②エロ、③下品(中傷とか悪口とか)、こういうものに人は惹かれる。実に下らないことをして炎上したり、ニュース記事を引用しながら記事をまったく読んでいなかったり、短絡的に行動するすべての人々はああなるべくしてなっているのだと、この頃感じるのである。ここまで読みました?

 私たちはこの素晴らしいインターネットという大メディアをいかにうまく乗りこなすかを考えている。「これから語られるような悪い影響もあるだろう、しかしそれは使い方の問題だ」と思っている。マーシャル・マクルーハンは電子メディアに対する責任を使用者に転嫁するこの意見について、こう冷笑する。「あらゆるメディアについての従来の理解、すなわち、重要なのは使い方だという考えは、テクノロジーをまるでわかっていない鈍感なスタンスである」。メディアというものは必ずそこに乗っかる中身が注目され、メディア自体が問題になることは少ない。新聞が「何を」いっているか、本が「何を」いっているか、電話で人が「何を」語っているか、大変気にする。しかしメディア自体について評価などしない。これはいつの時代もそうだった。しかし、

長期的に見れば、われわれの思考や行動に影響を与えるのは、メディアの伝える内容よりも、むしろメディア自体である。

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

  メディアがわれわれに与える影響にはいろいろある。たとえば、ネットをやりすぎているとか時間の使い方にも影響する。また、そうすることで日常的行動は変化せざるをえないだろう。しかしもっとも重要なことは、神経系に対する影響である。私たちはもはや長たらしい文章など読めない。この記事をここまで読んだ人など一人もいないだろう。この記事ぐらい読まなくても別にいい(いや、書いた以上読んで欲しい)。……しかし『罪と罰』だなんてあんなクソ長い話、誰が読むんだ?

 

脳には可塑性はあるが、弾力性はない

 「成人になると脳は完全にできあがってしまい、それから変化することはない」という言説を未だに信じている人はいないだろう(あえてこう書く以上はいると思っている)。シナプスがどうとか、ニューロンがどうとか、ややこしい説明に深入りするつもりはない。重要なことは、われわれの神経回路のすべて(感情、視覚、聴覚、運動、思考、学習、認識、記憶等々)は変化し得るということである。新しいやり方が刻印され、古いものはお払い箱になる。これを可塑性という。別言すれば、「脳には自らのプログラムを組み替え、機能を変更する能力がある」。

 では、弾力性がないとはどういうことか。脳は柔軟に変化がするが、変化したあとの状態にしばらくしがみつく。それが良い習慣だろうが悪い習慣だろうが、一切関係がない。依存症が深刻化するのもまさにこの理由による。もちろん、元に戻すことがどうしても不可能だというわけではない。ただ、その状態が一番抵抗の少ない自然な状態になる。

 すなわち、可塑性は「脳は変わる」可能性を保証してくれるが、「変わりやすい」わけではないということである。

 

知的テクノロジーは私たちを「強く」変化させる

 テクノロジーを四つに分けると、次のようになる(ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること)。

  1.  力や器用さ・回復力を拡張するもの : 鋤、かがり針、戦闘機
  2.  感覚を広げるもの : 顕微鏡、ガイガーカウンター
  3.  自然を仕立て直す : 貯水槽、ピル、遺伝子組み換えトウモロコシ
  4.  知的能力の拡張 : タイプライター、そろばん、地球儀、本、新聞、学校、図書館、インターネット、地図、時計

 四番目を知的テクノロジーという。知的テクノロジーは広く使用されるようになると、新たな思考法を生みだしたり、既存の思考法を一般に広めたりする。このテクノロジーの開発者たちは、テクノロジーのそうした効果には最初誰も気が付いていない。先祖が地図を開発したのは概念的思考能力を高めるためではなく、それはただの副産物である。しかし最終的にもっとも強い影響を与えるのがその副産物なのだ。

 

例:本の歴史

はじまり

 人類は石や木、皮、布、骨などにひっかいて文字を書いた。しかしそうしたものは形が不ぞろいで、なにより耐久性がない。そこでシュメール人メソポタミア産の粘土で板をつくり、そこに文字を彫り、焼き、乾燥させた。この粘土板は書くための専用媒体としてははじめてのものである。とはいえ、それは作るのも、運ぶのも、所蔵するのも困難であった。もちろん一般に広まるわけもなく、「知られざる」ものだった。

 紀元前2500年頃、エジプト人パピルスという植物から織物を作った。これを巻物にすることで持ち運びも所蔵もしやすくなった。とはいえ巻物はつくるのが面倒で、大変に高価だった。そんな高価なものを使って文字の練習などできるわけがない。というわけで、そこで開発されたのが「ロウ板」である。厚みのあるロウの板を木枠で囲ってある。ロウを尖ったもので引っかいて文字をかき、消したくなったらまるみのあるものでぐりぐりやって消すわけだ―――ともかく、これによって「識字能力のある」人びとは、読み書きが日常的な活動となったわけだ。

 とはいえ、私たちが期待するようなレベルまで想像を膨らませてはいけない。

  •  黙読などという習慣はなかった。もちろん黙って字を追うことぐらい物理的にできるのだが、文化がそれを許さない。もし黙って本を読んでいる人がいたら「喉を枯らして声が出せないでいるのか?」と奇妙に思うほどだった。
  •  また、すべて続け書きだった。つまりスペースもなければ句読点もない。行ってみれば、whatisthisthisisapenと書いてあったわけだ。どうしてかというと、しゃべるときにスペースなんか入れないからだ。スペースは発声されない。
  •  さらに、語順も滅茶苦茶。意味は抑揚と強勢によって捉えられる。

 音声文化が書記文化を支配していたとき、人々の脳は恐ろしく負荷がかけられていた。なにしろ、じっくりていねいに読まなければ何が書いてあるかすらおぼつかない。つまりテクスト解釈の段階でいっぱいいっぱいになるほどだった。

大革命

 ローマ帝国崩壊後、識字能力者は増え、さらに本の入手可能性が増大した。それに伴って少しずつ語順ルールなどが整理されていく。実はこのことが、大革命となる。認知上のストレスが激減し、テクスト解釈ではなく意味解釈に脳の力を割けるようになった。つまり「深い読み」ができるようになった。

 この頃から人々は本を黙って読むようになったのだが、これがまた功を奏した。本を読むこと自体が人間の注意力にある変化をもたらしたのである。通常、人間の脳は「変化」に対して敏感にできている。人間は動くものが気になってしょうがないし、すぐにちらちらと興味が移る。周囲で起こっていることをできるだけ認識しようとするのは、人類の生存にとって決定的に重要なことだったからだろう。

 これに対して、本ときたらどうだろう。ちっとも動かないし、ページをいくらめくろうが様子が変わらない。ページの外側ではいろいろなものが蠢いているのに、本に顔をうずめている限りそれは認識できないのだ。私たちの周囲にいる人々の大部分は、謙遜している者も含めて、「本って読めなくって」「眠くなるんです」と言っている。あれは嘘ではない。そもそも人間は本を読むようにできていない。本を読むためにはまったく動かない対象をじっと見つめ続けるだけでなく、ページの外の世界の雑音をシャットアウトし続けることが必要になって来る。自然な脳においては注意散漫だった私たちの脳は、その可塑性によって次第に中身を作り替え、遂に鋭い注意力と深い読みを可能にする「文学の脳」へと変質した

 

 そしてまた、読みが変われば書きも変わる。語順ルールなどの統一、本に一人で向かうことは執筆者に自由を与えた。彼等の作品は私的なもの、冒険的なものになった。一人でいるからこそできたことだ。非因習的な思想、懐疑的な思想、異教徒的思想、扇動的思想……こうしたものにまで位置が生まれ、知の領域が一気に広がった。

 そしてまた、執筆者は推敲をすることができるようになった。口述筆記はあまり見直されることがなかったが、自分一人で黙々と書くことによって文章内の内部構造を反省させ、「章」「節」「段落」といったものを与えた。

 読書の個人化は教育にも広がり、この結果、大学の講義は大きく変化してきた。また図書館にも閲覧スペースができた。これまでは本は声に出して読むものだったが、個人閲覧室の代わりに長テーブルが用意され人々はそこに並んで黙読をし始めた。本の需要は急拡大し、出版業が盛んになる。1445年になると、グーテンベルグが本の大量生産を可能にする印刷法を編み出した。活版印刷機の登場によって少人数の労働者だけで大量に本が複製されるようになった。生産コストが下がったことで本はどんどん安価になり、人々は購入して読み漁るようになった。さらに1501年、イタリアの印刷工がポケットサイズの本を発表すると、本は日常生活のなかに溶け込んだ。すると識字率がどんどん上昇し、さらに需要が高まり、さらに本は読まれるようになった。

 もちろん、本のなかにも「粗雑で、粗野で、取るに足らない」ものがあったのは間違いない。けれどもそうした本にも効用がある。あぶくみたいな取るに足らない本のおかげで読書はさらに余暇時間の柱となったのだから。現代と同様、取るに足らない本はいつまでも名前は残らない。

 さて、われわれは(いまはどうか知らないが)、「深い読み」ができるようになった。深い読みがもたらした知の遺産は教科書に載っているが、私たち個人にもたらす新規学的効果はなんだろう。小説を読む人を脳スキャナで調べてみると次のことがわかった、という。

物語内で出会う新しい状況を、読み手は心的にシミュレートしている。テクストから把握される領野は、「現実世界で同様の活動を、行ったり想像したり、観察したりする際に使われる部分」であることが多い。

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

  書き手の言葉は読み手のなかで触媒となり、新たな洞察・連想・知覚・啓示をも触発する。そしてそうした深い読み手がいるからこそ、作家は意欲が湧く。グーテンベルグと作家の強い意欲のおかげで数千しかなかった英語の語彙は百万語に跳ね上がった。新語は存在すらしなかった抽象概念を表現し、新たな道を切り開く。そうした語彙は私たちの経験をより豊かなものにし、感じ方すらも変貌させてしまった。

 可塑性によって本に変えられた脳は、本とは関係のない部分にも影響を及ぼす。私たちは周囲を「読む」ようになる。少なくとも私たちの先祖は、以前よりも思索的で、反省的で、想像力に満ち満ちた存在となった。もちろん、「少なくとも」とは、「私たちはどうか知らないが」という意味だ。

 

 さあそこに、哀れ、最強のメディアが現れる。

 

原始へ還れ

 デジタル・メディアはだいたい次のような特徴を持つ。

  1.  双方向性(ダウンロードもアップロードもできる)
  2.  ハイパーリンク
  3.  検索可能性
  4.  マルチメディア

 これらすべては恩恵でもあり、私たちにとって脅威でもある。双方向であることによって私たちはなにかを見せたり見たりすることがはるかに簡単になった。ネット接続時間はどんどんと増えてきている。それに応じて、印刷物を読む機会はどんどん減って来た。すべてのものはデジタル化可能であるというので、たいていのものはPC上で見ることができる。

 だが文字は読まれている。ブログもそう。それから電子書籍もそうだ。kindleなどの登場によって私たちは大量の本を持ち運ぶことができるようになり、常にネット接続できるようになった。わからない単語はすぐに検索することができる。バックライトがまぶしくて目が疲れるといった問題は技術によって改善して来ており、徐々に勢力を拡大している。日本においては「ケータイ小説」なるものが生まれた。またオンラインであることなどを利用して本にビデオを組み込んだものの出版をはじめたり、あるいは本自体にソーシャルネットワーキング機能が追加されようともしている。私たちは読みながら本についてコメントしたり、あるいは改訂したりする。

 懸念される問題はいろいろある。

  •  まず、出版物が「完成品」ではなく「一時的なもの」になること。無限の改訂が可能である。作品に対する厳格さはなくなっていくかもしれない。
  •  また、出版物にSNS機能がつけばもはや書くという行為は私的なものでなくなる。私的だった執筆活動はまたあらためて公に出される。人がどう思うかを気にするようになるかもしれない。いいように思われるものや、良いヒット数を記録する言葉ばかりを選ぶようになるかもしれない。

 このような懸念は、先ほどの本の歴史を振り返ればわかりやすい。しかし、こんな心配は無用だという人もいる。

 

 しかしたしかなことは、上述したようなデジタル・メディアの四特徴は私たちの注意力を散漫にさせる手助けをしてくれるということだ。デジタル・メディアはSNSやメールの通知、あるいはニュースなど、社会的・知的刺激を常に私たちに与え、「こっちを見て」とアピールしてくる。そしてそのうえで、私たちを圧倒するほどの多種多様の情報を突き付け、スクリーンの世界で注意散漫状態を作り出すのだ。そのような注意散漫状態を私たちは望んでいる。本を読むよりフィットする。もともとそういうような作りになっているからだ。

 私たちは情報を摂取するとき、まず「短期記憶」と呼ばれるまな板の上に載せる。このまな板は以前まで7つぐらいは載せられると考えられていたが、現在ではずっと数が少ないことがわかっている。これ以上載せられると職人はパニックを起こす。それは本の場合でも同じではないかと思うかもしれない。しかし、現実にはそうではない。本は読むスピードを落とすことができる。本自体は何も主張してこないので、職人の調理を待つことができる。しかしデジタル・メディアではそんなことはできない。こいつは自己主張が強く、とにかく「こっちを見て」と言ってくる。私たちはピロンとスマホが音をたてなかったとしても、一時間も愛機を手放すことは困難な体に仕立て上げられている―――――というわけで、パニックを起こした職人は適当な仕事をする。それによってもたらされるのは短絡的思考。私たちの頭はまるで「いいね」「よくないね」の二つのボタンしかないようになってしまう。

 本というメディアを読んでいるとき、そしてインターネット記事を読んでいるとき、私たちの脳は違う働き方をしている。どういうことかというと、デジタル・メディアに触れているときのほうが広く脳を使っているのだ。本の場合もたくさん使うが前頭前野は使わない。ここは物事を決めるときに使う領野である。そうなると一見、デジタル・メディアが勝利したかに思えるかもしれない。たしかに老人が頭を全体に働かすのにはいい成果を出すだろう。

 私たちは常に、何かを決定させられている。何をか? クリックするか、しないかをだ。押すべきか押さざるべきかを判断し、次に進む。脳が全体的に使われることによって認知的負荷は増大する。その負荷は、まるで大昔、文章に語順ルールがなく続け書きにされていた頃のようである。ハイパーテクストを読み終えた人々の多くは、書いてある内容を何も覚えていない。そこで印刷物vsハイパーテクストで試合をさせてみると、理解力という点について、印刷物に軍配が上がった。「何も覚えていない」のだった。テクストの中にハイパーリンクが多ければ多いほど、テストの点数が下がる。

 読書に慣れている人はふつう、斜め読みを心得ているものだ。スキミングといったり、場合によっては速読などと言われる。つまり要点を拾って全体像を把握する読みである。言ってみれば、私たちはスキミングを重視するようになった。

 

 やがて「深い読み」は一部の層だけの特権に戻るかもしれない。私たちはクリックするか、しないかを選び、広告主に利益を届ける。スクリーンに没入し、考えることをやめる。語彙は減る。表現が減れば、経験に色が少なくなる。上から下に、あるいは左から右に、順番ずつに読んでいた直線的な思考は消え、違うページから違うページへと「スタッカート的に」飛んでいく思考に移行する。

 情報過多の状態になっても、私たちは情報を求める。同じだけ食べさせろ、とデジタル・メディアに要求し、機械は黙々とそれに従う。情報過多になっている人間はだいたい次のようなことを思う。「もっと面白いことはないか。もっと大切なことはないか。もっと」