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にんじんと読む「儀礼とパフォーマンス(岩波講座 文化人類学)」🥕 テクノロジー社会の病院出産

 文化は、自然な状態=カオスを分類する。この分類はもちろん文化においてさまざまだが、その境界においては儀礼が行われることが多い。あたかも、儀礼がその移行を引き起こしたのだとでもいうように。

 儀礼とはある秩序や形式に従って、繰り返し、しかも普段とは異なる服装や歌、踊りなどとともに演じられる行為である(p26)。単なる習慣としきたりと異なるのは「シンボル」を用いる点であり、たとえば病気=綿毛とされ、綿毛をひょいと取ってしまうことで治療の儀式をおこなったりする。

 通過儀礼とは、特にある状態から別の状態へ、ないしはある世界(宇宙的あるいは社会的な)から他の世界への移動に際して行われる儀式上の連続である。通過儀礼においては分離→過度→統合という儀礼がこの配列でみられることが特徴である。

 

テクノロジー社会の病院出産

通過儀礼の三期を追う

 通過儀礼の例としては、現代の病院出産もそのひとつに数えられる。

分離)女性はある日、妊娠検査薬によって妊娠を知る。彼女はどれほど妊娠が明らかであっても病院へ行き、医師から「妊娠していますね」と告げてもらい、説明を受け、母子手帳をもらいにいく。それを通して妊婦の仲間入りを果たしたことを自覚する。

 ところでこの過程においては、妊婦は文字通り、「これまでの社会」から「分離」していく。例えば仕事の量を減らしたり、産前休暇の時期を決めたり、外の社会的活動から身を退く準備をする。仮に減らさなくても、周りはもはや女性をこれまでと同様には取り扱わず、特別な状態にあるものとみなされて、じろじろ見られたり、避けられたりするようになる。

過渡)妊娠中、女性は定期的に医師の診断を受ける。これまで隠すべきとされた部分をわざわざ見えやすくし、下半身をカーテンで仕切られ股だけを診察されるという衝撃的な体験をする。またパートナーとは、女性が動けない分、役割交代をすることが多く、ここでも普段とは異なる状況が見られる。また、妊娠中、「妊婦はこうすべき!」「妊婦はあれをしちゃいけない!」などといった様々な矛盾したメッセージを受け取り、ジレンマに陥る。

 そして陣痛が始まると、とうとう女性は入院することになる。彼女は入院服に着替え、剃毛や浣腸を受ける。出産のプロセスは、胎児がだんだんと少しずつ子宮口をくぐりぬけていくもので、その過程をそばのモニターを通して確認する。そうして遂に出産の段となると、女性を強烈な痛みが襲う。意識が朦朧としてきて、うめき声や弱音を吐きながらその痛みに耐え、助産婦たちに励まされたり叱咤されたりしながら、とうとう出産に至る。赤ん坊の体が出てくると痛みが嘘のように消えてしまい、体が楽になる。その後病室で寝ていると産着に包まれた赤ん坊が連れて来られる。

 彼女は入院中に母乳の飲ませ方やおむつの替え方など育児の仕方を習う。無我夢中で世話をし、退院の日が来る。

  過渡期は通過儀礼のなかでも最も重要な部分である。通過儀礼の過渡期にある者は、どのカテゴリーにも属さないあいまいな状態であり、通常の社会構造からは目に見えない、死の状態におかれる(具体的には、体を覆われたり、隔離されたりして人目につかないそうにされ、名前・服装・所属などの個人を表すものを奪われたり、ささやき声や特別の語順や言い回しでしゃべるように促される)。この状態においては非常に穢れたものとみなされたり、あるいは普通以上の力があると見なされたりする。そして過渡期においてはそれまでの社会的なアイデンティティを破壊するような試練が与えられ、壊されていく。壊されていくのと同時に再生のプロセスがはじまり、ここで新たな技術や神話、秘儀、聖なるものが開示されたり、謎の答えが明かされたりする。この試練を耐えたものには連帯感や仲間意識が芽生える。

  1.  さて、妊婦はまず検診によってこれまでではほとんどありえないような、転倒した状況に置かれる。股を見られるが顔は隠され、パートナーとの役割が入れ替わり、自らの生活も一変し混乱したものとなる。これらもまた試練の一部である。妊婦同士の間には連帯意識が生まれることが多く、医療の前においてはみな一様に妊婦であり、彼女らはそれぞれに心配事や悩み事を打ち明け合う。
  2.  妊婦が聞かされる「してはいけない=タブー」はほとんど多くの場合、必ずしも生理学的な事実に基づいていない。たとえば妊娠中に旅行を禁ずることが多い日本だが、外国では特に禁止していない。妊婦らが教えられるのは「必ず主治医に相談し、勝手な自己判断はせず、医師のアドバイスに従いましょう」ということで、「医学的判断」というものの価値を女性が学び取る。医学的判断は種々の疑問に対する隠された答えを与えてくれるありがたいものである。
  3.  助産婦は、頑張っている妊婦を励ましたりするが、「いきみが足りない!」「そんなこともわかんないの?」といったような「こんな試練に耐えられないなら母親にはなれないのよ」と言わんばかりの叱責とからかいの言葉をかけてくる。これは通過儀礼の過渡期にみられる一般的な特徴のひとつである
  4.  お産の苦しみはすさまじく、女性に死を感じさせる。いよいよ生まれるとなったときに女性の体は滅菌シートをかぶせられ、赤ん坊の出口を残して完全に姿を消してしまう。そして赤ん坊が穴から登場するのだ。ここに象徴的な死と再生が演じられている。
  5.  病院出産は儀礼のひとつであるから、シンボルが存在する。それは「テクノロジー」である。助産婦や医師は女性ではなく陣痛の波形を見ている。モニターの波形は陣痛促進剤によって操作されているので、あたかも医師たちはモニターの出産時期を待つかのようである。女性はテクノロジーによって置き換えられており、テクノロジーを操作することで女性の出産を可能にしようとしている。/ところで南アメリカのクナ族は産婦の傍らにシャーマンが立ち、子宮や産道を象徴する神話を唱える。神話が出産を表現するのに引きずられて、女性もまた出産するのだと信じられている。儀礼におけるシンボルは、このような変化を引き起こす力を持っているとされるのである。
  6.  通過儀礼においては地位の変化が身体の加工によって示されることが多い。病院出産においては「会陰切開」がこれにあたる。会陰切開には医学的理由が与えられている。①赤ん坊が大きく、会陰が避けてしまうと傷が縫合しづらく治りづらい。②会陰が伸び切るのを待っているとその後の性生活がしづらい。③会陰部を広げると赤ん坊が通りやすくなり、仮死の危険が回避できる。/自然に任せて放っておくより文化的に手を加えたほうがより美しいままでいられるという考え方は性器切除や入れ墨と似ている。また三番目の赤ん坊の仮死の危険についてだが、結局のところ、会陰切除はルーチンワークとして行われている。医師は産む直前に現われ、切りますよと言って切ってしまう。生理的な必要というよりも、儀礼的な行為なのである。

 最初に書いたように、儀礼というのは地位の移行のために必然的だったとみなされる。会陰切開についても同様で、切られて当たり前だし、切らなかったらどうやって生まれるんだとさえ思われている。会陰切開を切らなかった女性が人よりも穴が大きいんだと恥ずかしがるケースもある。会陰切開以外の産科的処置についてもそうされる必然性があったのだと考えている。しかし子どもはそうした産科的処置を受けなくても自然に生まれるものである。病院は出産を促進し、能率的なプロセスで出産を行わせる。つまり、《自然なプロセスは病院出産によって現代社会の価値観に沿うように再構築され、文化化される》。

 産婦は病院出産のおかげで産めたのだと思っている。この通過儀礼は「母になる」ことが社会的にもたらされたことだと思わせ、自然よりも文化の優位性を主張する。

統合)産後、女性は雑誌に載っている『退院の日を装うファッション』を見たりする。病院によっては前日に洗髪をしたり、フルコースのディナーなどのサービスが提供されているところもある。退院に際しては、病院に対してお礼の品を送ったり、人々から出産祝いをもらったりあるいはそれに返礼したりする。パートナーや親が出迎えてくれて、日常に戻っていく。退院後、医学的には体が完全に回復していないとされ、一か月検診で医師のチェックを受ける。

 どの社会でもそうだが、産後の何日かは特別な状態が続くされる。昔は産婆が母体の回復や赤ん坊の成長を保証し、地域の人々にそれを公にする役割を担っていた。しかし現代では文化の世界観や宗教観に裏打ちされた儀礼は消え、医学と消費が儀礼を支えている。産後の終わりを告げるのは医師のことばであり、地域社会への母子の承認を意味する儀礼はお祝いのやりとりにかろうじて見られるぐらいである。

 

儀礼の持つ意味

 儀礼の意味はシンボルを見ることでわかる。女性が病院出産で知るのは現代社会におけるテクノロジーの優位である。病院出産を通じて能率やスピード、品質管理の重要性を教えられる。病院という組織の要求に従うこともそのひとつであり、儀礼は人々に対して社会の基本的価値を伝える機能を果たしている。

 また、医師にとってもこの儀礼は役立っている。儀礼とは医療現場のルーチンであり、ルーチンとは最も手慣れた処置である。不確実をできるだけ減らし、未知をコントロールしたいと考えている。そのため会陰が裂けるよりは先に切ってしまうほうを選ぶし、赤ん坊が大きくなって出にくくなるよりは誘発剤を打って出してしまう。またこうしたことをルーチンにすることで、病院内の他の危険な場面に専念することが出来る。

 

  社会生活一般においても、人々は道をコントロールするために決まった行動をとろうとする。呪文を唱える、祈るなどはわかりやすいが、「マニュアル通りに事をこなす」こともそのひとつであり、リスクを減らそうとしている。危機が訪れると、儀礼は人々を無力感から解放してくれる。カオスが顔を出すたびに編み出されてきたもの、それが儀礼なのだ。

 

 

岩波講座 文化人類学〈第9巻〉儀礼とパフォーマンス

岩波講座 文化人類学〈第9巻〉儀礼とパフォーマンス

  • 作者:青木 保
  • 発売日: 1997/08/28
  • メディア: 単行本