第一部 健康主義
健康主義healthismとは、健康の追求が国家のイデオロギーの一部となることである。これは政治家にとっても、いろいろの市場にとっても、大変都合がよい。というのも、この健康主義を理論的に下支えしている生活習慣主義lifestylism「不健康は、その病人自身の無責任な生活習慣によって、自ら招いた」とする考え方が、なにが正しい行動なのかを定義づける権威者を求め、その正しい行動をみんなの義務に置き換えるべきだと人々に信じさせるからである。
イヴァン・イリッチは専門的自由業としての医療と、支配的専門性としての医学をはっきり区別していた。専門的自由業としての医療は、ただ隣人の困りごとを軽くしてやるために使われる。一方、支配的医学は健康な人々を監督したがる。文明社会においてはタバコ・アルコール・悪い食事が病因なので、「わるい個人」がやりかたを治せないならそいつのために専門家がチームを組んで導いてやらないといけないと考えている。しかし実のところ、健康不良の主な原因は貧困だという主張もあるのだが。しかも、第三世界において死亡率を下げたのは医学の発展ではなく、環境の改善だった。
病気は昔からあった。だからそれに寄りそうものとして医者もいた。とはいえ、彼らの身分はあまり高くはなかった。彼等を賛美する文章よりも、非難する文章の方が多い。彼等によって施された治療は大抵の場合、悪い結果につながった。だというのに、たまたま患者が良くなると、プラセボによるものにも関わらず自分たちの手柄を喜んでいた。そして時代は下り、15,6世紀になると、医学は金銭的利益と政治的意図に支配され始めた。
だれもが必要としている健康は売りやすい。そして健康を追うことは企業の利益にもつながる。ジョギングする人は、たとえば夜間走るために反射するベストを購入する潜在的消費者であり、その他さまざまな市場に関係する。健康に関心のない人に聞かせるセールストークは健康であることとそう感じることの違いを言い立てることであり、そこでセールスマンはちょっとした科学的根拠を添えることができる。
一見、予防することは治療に勝るように思える。しかしやろうと思うと検査の対象は限りなく広がり、人々を安心させることはない。まさに《我々が正常なのは、何かが異常だという結果が出るまで徹底的に検査をしていないからにすぎない》のだ。しかし検査結果は時に間違い、さらに必要のない検査を要求したり、時には必要のない手術がとりおこなわれたりする。ところでマンモグラフィによって利益を受けた女性は年間65000人のうち1人だった。健康に不安を感じている人の割合は年々増え続けており、健康はビッグビジネスとなっている。
さらに今、健康はその権力を拡大させている。つまり健康は「単に病気でないこと」以上のものとなっているのである。健やかであることだけでは足りない。WHOという国際機関でさえ、健康を幅広く再定義した。
人はたいてい病死する。病気は生活習慣からきている。つまり人は自分の過ちによって死ぬ。「早すぎる死」というのはいつも「予防できた死」を意味するので、社会的に受け入れられる死というのはいつも死に物狂いの治療を受けたときである。このおかげで、多くのがん患者が死に至るまで死と戦わされる。
健康主義者は死をタブーとする。健康主義者は死が生活習慣によって免除されると信じ切っている。しかし残念ながら人は死ぬ。モンテーニュにとって転落死も溺死も病死も老衰も同じく、すべてが自然な死だった。
多くの人が死を死ぬほど恐れて生きている。
死を恐れて生きるとは生きることを恐れることだ。
バーナード・ショーは自身の健康哲学をこうまとめている。
いつまでも生きようとするな。失敗にするに決まっている。
諸君の健康を擦り切れてしまうまで使い果たせ。それが健康の意義なのだ。持っている者を死ぬまでに使い切ってしまえ。そして生き残るな。
五体満足に生まれて健やかに育つことに最大の注意を払え。