にんじんブログ

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目標を達成するということ(つれづれ)

 目標達成に関する本を読んだので、せっかくだから目標達成に関することを書きたい。目標達成に関する本は目標達成について書いている。達成すべき目標は前提されている。しかし、目標というものは随時更新されていくものである。あまりにも長期的な目標は、達成することだけでみれば相当に現実的ではない。目標と目標がぶつかった時、人はその葛藤を乗り越え、折り合いをつけた新たな目標を創出する。私たちは今までそうやって目標を更新してきた。きっといつまでも続くだろう。

 赤ん坊は「いい感じ」のことにしか興味がない。彼にとって望ましいことはそれだけだ。様々なこと知り、成長につれて目標は捏ねられていく。われわれが快楽機械的マトリックスに閉じ込められたくないのは、そこには望ましいものの動的な挙動を捉えることができないからだ。あなたは動物の一種で、望む望まぬに関わらず成長する。なにかを経験する以上学習は避けられず、同じことを繰り返していると退屈してくる。変化するように生物レベルで調整されているので、私たちはこのダイナミクスを避けることができない。

 では晩年になって望むことが、果たして一番望ましいことだろうか。たぶんそうではないだろう。生きる限り目標は更新され続ける。われわれは永久に望ましい「望ましさ」を見つけることができない。生きる意味はなにか、という問いは原理的に一生答えることができない。われわれはすべて、そのときの環境や文化、持っている知識、経験などの踏まえた目標を設定する。生涯の各時点における最善はまさに最善手だということだ。だがそこには必ず欠陥があり、ベストどころか、客観的に見てベターな結果をもたらすかもわからない。次の瞬間には別の状況があらわれる。私たちはこれまでの結果を踏まえながら、より緻密なプランを提案する。もはや状況が違うので一つ前の目標とどちらが望ましいかを断定することはできないが、より多くの考慮をもった最善手である。私たちは環境に最善手を打ちつづける。

 

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 「子どものときに守れなかったアイツの代わりに今お前を守る力を~~」みたいな感じで、一応いろいろな熟達が見られるし、一生「対応力」みたいなものは伸びて行って、最後にはそんな元気がなくなって死ぬのだろう。言ってみれば生きる意味はそういう中での経験というか、達成の喜びというか、実際に人を救っていたり、挫折があったり、そういう「生きてる」を味わうことにあるのだろうと思う。遊園地がいずれ閉園時間を迎えるとしても、アトラクションを楽しんだりアイスを落としたり飯がうまかったりすることが無意味になるわけではないだろう。

 ただ、人生には「遊園地の外」はない。私たちは「もう帰ろうか」と促されて、パークの出口に向かうあいだ、中にいながら外にいるような、「あー、休日もこれで終わりか」みたいな、そういう時間をもつ余裕は必要かもしれない。もっと遊びたいと駄々をこねても、閉園に変わりはない。物足りなさを感じるちょっとつらい旅行になってしまうかもしれない。

 

 が、当たり前だが、統計的には出口までの道のりを悠長に過ごせる人は少ない。ゴーカートを飛ばして楽しんでいたらぶつかって担架でパークの外に連れ出される人もいる。子どもはいずれ、この楽しいパーク内のそこかしこに、担架があることに気づく。閉園時間が気になりはじめる。時間ばかりが気になっていると、パークは楽しめないのに、目につくような場所に担架ばかり置いてある。パーク事務局に問い合わせても、どこにも繋がらない。ベンチにはそれを不審に思った人がいて、アトラクションにも乗らずに議論している。「考えてみれば俺たちはどこから来たんだろう?」「ここはどこにあるんだ?」「パークの外は、いったいどうなってるんだろう?」私たちはパークの中で生まれ、パークの外はない。ほんとうは閉園時間だって自分たちがこしらえた概念に過ぎないことに気づく。誰からも教わらなかった。「誰だ。パークの外について話したのは」「わからない。だが確かにその時間はある」「誰も知らないだけで」「研究しよう。ここを打ち破ろう」そうしてその議論自体も、人々はやがてアトラクションであることに気づく。自分たちは客であり、スタッフでもあったのだった。