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にんじんと読む「老荘思想における絶対的なものと完全な人間(井筒俊彦)」🥕

 この記事は井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『東洋哲学の構造』に収録されているエラノス会議講演集のひとつを「読んでみた」ものです。わかりやすいので、普通にこれを借りて読まれたほうがいいかもしれません。

 

 

第一節

 まず「タオイズム」についての注意から。この語はまず第一に老荘思想の学派、第二に後漢時代に起こった庶民的宗教運動を指します。前者の場合「道家」、後者の場合は「道教」を表すことになるでしょう。

 この講演の関心は前者にありますし、また特にその思想の中身に関心があります。というのは、たとえば老子というのは実在した誰か一人というわけではなさそうですし、また荘子老子の弟子だとかその思想を受け継いだとか、そんなことはありません。老子荘子がどっちが先だとか、いろいろ気になることはあるのですが、まぁそういうことは今はどうでもよいことで、ともかくここでは老荘思想のコアである「道(タオ)」という哲学を分析していきたい。つまり、老荘思想の世界観の根本的な思想構造を明らかにしたいと思っています。

 

第二節 儒教の意味論

 老荘思想儒教哲学への敵体精神によって活気づきました。その標的はまず儒教の「本質主義」です。まずこのことから説明しましょう。孔子は「名を正すこと」を大事なことだと説きました。言葉をきちんと使うということです。たとえば皆さんが四角いテーブルをスクエアブルと呼んでいたとしましょう。しかし丸いテーブルまでをもスクエアブルと言い始めたら変なことになります。

 妙なたとえを出しましたが、これを道徳的・政治的領域に話を移してみましょう。孔子が言いたいことはつまりこういうことです――――「支配者」というのはもともとはナントカという資質を持っているものだけに使われる言葉だったのに、今では資質を持たない者が自ら支配者を名乗っている。またあるいは、親孝行をするのが「息子」であるのに、しないものまでもが今は息子を名乗っている。言葉の用法を正し、社会の構造全体を立て直さなければならない。すなわち、その名でよばれるのにふさわしい人だけがその名でよばれるような社会の実現を!――――息子が親孝行をするものだと言われるのは癪に障るか知らないけれども、孔子の言いたいことはおわかりになるのではないでしょうか。

 ここに儒教哲学の本質主義があります。彼等に言わせれば、命名の過程とはこうです。

  1.  人間の心が諸感官をとおして、さまざまな事物に触れること。ここで人は事物の間の類似点や相違点を感知し始めます。
  2.  類似点や相違点が総合的に一層明確に理解されること。これは「心のより行動な機能」によるものです。というのも、感覚的な印象は事物の外的な形態や性質だけしか伝達しないので、「事物がいったいなんであるか」についてはさまざまな印象を総合することが必要になって来るのです。ここで把握される、ひとつの事物を規定する本質を「事(じ)」と呼びます。
  3.  命名すること。そして個別的な名称をさらに一般に押し進めて、もっとも普遍的な名称である「もの」に達し、ここに普遍から個別までの存在論的な階梯があらわれてきます。

 一見常識的に思えるこの哲学に対して、老荘はどこがおかしいと言ったのでしょうか。

 

 

第三節 老荘思想の意味論

 イヌのことを「inu」と呼ぶようになったのはまったく偶然のことです。そのことは儒教哲学の立場でもたしかなことです。ところが儒教哲学においては、犬という名によって把握された本質(「事」)は客観的・永続的なものである点が特徴的です。

 老荘は本質を否定します。つまり、確実で、絶えず固定的なものが、現実に存在することを否定します。例えば美女は美しいものですが、たとえば魚がその女を見たらどうでしょう。鳥ならばどうか。人間、魚、鳥……いったいどれが美の本当の基準を持っているといえるのか。いや、そもそもその本当の基準というのが存在しないのです。儒教哲学においては美しいものはその本質からして美しいと主張するのですが、それはあくまで人間の目から見るとといったような局限されたものにすぎません。また逆に言えば、客観的・本質的に醜いものも存在しないことになります。美醜の区別は主観的な視点の問題だということです。

 この本質主義を推し進めると、どうなるでしょうか。真偽・善悪・美醜のいずれも相対化されます。儒家が言う「仁」「義」もそのひとつです。しかしもっと重要なことは、われわれがいろいろな事物を切り分けているその境界線さえも相対化されるということです。たとえば目の前にパンがあるとしましょう。パンはテーブルにおいてあります。ではこのパンとテーブルとを区分する本質的な境界はあるでしょうか。もちろん、老荘の立場では、存在しません。言語にはいろいろな特徴がありますが、とりわけ重要なのが、言語に内在する本質主義的な傾向です。

 儒家においても、犬を「inu」と呼ぶか「dog」と呼ぶかの偶然さは気づかれていましたし、また時とともに犬と呼ばれるものの対象範囲が移ろうことは自覚されていました。だからこそ、儒家はこの移ろいを止めようとしたのです。それが名を正すということです。しかしあまりそのことに執心するあまり、儒家は言語の本質主義的な傾向に呑み込まれてしまいました。言語によって事物をAと呼ぶことで、まったく何も存在しないところに境界線を設けてしまい、その境界線によって〈本質〉が発生するのです。

したがって、私は言う、「言葉なし」と。

荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)

  老荘思想のこの反本質主義によって、事物の境界は消えてしまいました。ではこの「世界」とはなんなのでしょうか。言語によって分節化される土台であるところの世界とは。そこは『事物が無定形で夢のような存在様態の中で、お互いに自由に溶け合い、常に相互に変形し合うような、広くて限りない空間』でしょう。

 老荘を適切に理解するためには、境界線というものについてもう一度考えなければなりません。老荘は「絶対的な境界線」の存在を否定しますが、境界線それ自体はたしかにあるのです。あるのですが、あまりにも流動的なのです。これを世界の存在論的な流動性といいます。理性のはたらきは流動的な境界線を捕まえてしまって、不動の存在にすることです。そうしてそのような区別によってわれわれの現実が生まれます。しかし老荘思想においてはそんなものはうわべのこと、真の現実の歪曲にすぎません。この理性のはたらきにおいて決定的な役割を果たすのが「言語」でした。

 そのために真のリアリティはいつも、それを捕まえようとする言語の手をするりと抜けていきます。われわれは言語によってしか語ることができませんが、真の存在は言語の向こうにあるのです。つまり、われわれは必然的にその存在を歪曲することになります。このジレンマから逃れる唯一の方法は、現象の背後に表現しようもないリアリティが隠されている事実を理解することです。老荘思想において、表現できない向こう側にある真のリアリティを「道(タオ)」といいますが、当然のように、それをタオと呼ぶことで何かを固定できた気になってはいけません。

 わたしたちはふつう「生」と「死」を区別しています。これらはお互いにまったく対立しているように見えますが、それは「道」における二つの表現形態にほかなりません。両者はまったく同じことです。もっと言えば、すべての事物は一つです。

 

 

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第四節 形而上学的な混沌

 反・本質主義はただ一つの「本質」、つまり固定的で不変な唯一つのものを認めません。言い換えると、存在者の皮を一枚一枚剥いていくと、本質と呼ばれるたったひとつの核があることを認めません。『あらゆるものはいまだにそれ自体ですが、それと同時に、数えきれない他の事物でもある』のです。肝心なことは、道家がこの区別レベルの存在を否定しているわけではないということです。もちろんそれは存在しているのですが、あくまでもそれは表層的な現象であり、””多様性レベル””において妥当性を持っているのです。””合一性レベル””にまで達すると、すべての事物は互いに融けあい、究極的に根源的で形而上学的な基盤へと遡っていきます。

 この二つのレベルは概念的に識別はできますが、結局のところ、それは現実の二つの異なる側面にすぎません――――このことをはっきりさせておかなければならないでしょう。わたしたちが””多様性レベル””で話をするとき、aという事物は「本質的に」aでしょう。そして事物bと境界付けられているでしょう。しかし””合一性レベル””で話をするとき、aはaであり、またbでもあります。このすべての事物の存在論的な均一化を荘子は「天鈞(てんきん)」といいました。わたしたちは「天鈞」によって対立を調和し、すべてを「混沌」に引き戻さなければならない。これが荘子の主張です。

※にんじんコメント。仏教でも、合一性レベルのもとで世界を見ること=悟りが目的とされる。しかし、カオスがあらゆるものの下地にあるからといって、カオスに戻らなければならない理由にはならないのは明らかなことだと思われる。むしろ「人間として」生きるためには、「人間から見た世界」にいるべきだとも思うのだが、たぶんそれでは苦しみがあるので駄目だという話になるんだろう。こういう哲学においては、恐らく「良い」というのは悪いことが起こらないことだと見ている=負の功利主義とでもいうような見方が優先されているのかもしれない。

 

 混沌とは、「存在論的な流動性」を持っていたのでした。荘子は事物の変化過程を「物化(ぶっか)」と呼びます。物化とは、事物が連続的な時間単位の秩序の中で次々と変化していく過程です。こうした混沌の見方は、多様性レベル(常識的)に立った時のものです。aがaであることをやめbになること、それは多様性レベルにおいては時間という形式をもって「aがbになる」ことです。合一性レベルでみれば、aはaであり、bでもありますから、aがbへと移ることはなんの困難もなく、もはや「なる」とさえ言い難いものでしょう。「道」はaという現象の仕方からbという現象の仕方をし、そうした中に自らの存在を示し続けています―――以上が存在論的な流動性の時間的側面です。

 今度は合一性レベルに立ってみましょう。この観点からみれば、先述したように、aがbに「なる」ということはありません。最初からaはaであり、またbでもあります。絶対的に事物間の区別は存在しないのです。しかしわたしたちは多様性レベルのことをよく知っていますから、合一性レベルから多様性レベルを眺める努力をしてみましょう。このときわたしたちは合一性が様々な現象形態に多様化していくのをみることになりますが、この動きのなかに、『特別な種類の存在論的な緊張』が生起するのを発見します。それは統一化と多様化とのあいだの動的なバランスです。つまり「その統一性・合一性は多様な事物によって形成される」という緊張関係です。別の言い方をすれば、「合一性それ自体のなかに、限りない多様化と区別の可能性を内包している」ということです――――以上が存在論的な流動性の無時間的側面です。この件についてはさらにまたあとで詳述しましょう。

 

 その前に確認しておかなければならないことがあります。それはこの「無区別」が、単に知的な判断、論理的にそうだ、とか、そのように推測される、といったような言葉遊びのレベルにはないということです。つまり老荘はあくまで、「合一性レベルでの体験」というものを念頭においています。単なる「相対主義」といったようなものを超えなければ、結局「道」もその他すべての日常的な概念と同じレベルにいることになってしまうでしょう。

 

老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)

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第五節 エクスタシーと完全な人間

 さて、理性というものは多様性レベルにおける指導的役割を果たしますが、合一性レベルにおいてはまったく役に立ちません。より幅広い世界に飛び出すためには理性とは異なる機能を用いて、非日常的な種類の体験をしなければなりません。この種の体験のことを「照明」といいます。しかし理屈としてはそうだとしても、わたしたちは「照明」を体験する望みなど持てるのでしょうか。それは誰しもが到達できる境地なのか。その問いに対する答えはノーです。しかしまずはこの体験の内的構造を明らかにしましょう。

 照明を体験することが難しいのは「天鈞」レベルへ到達する精神的な事由を「自我」が奪ってしまうからだ、と荘子はいいます。自我あるいは自己、実存という軸の周りに全ての事物は適切な場を見出すからです。自己は中心点なのです。自己は外側の事物を知って把握したいという傾向をもっており対象を求めて外へ外へと手を伸ばしていくのです。こうした状態を「座馳(ざち)」といいます。*1

 座馳に陥りそれが固まってきたのを「成心(せいしん)」といいます。荘子はこれを「真の自己・真の性を見失った」ともいいます。真の自己っていったいなんなのかといえば、それはもちろん「道」です。言ってみれば、外側に外側にと手を伸ばすのをやめ、内側に内側に手を伸ばして行けば、真の自己に達することができる、と言いたいのです。五感のふつうの機能や理性の区別する営みを停止することが効果的で、できる限り外側へと手を伸ばす出入り口を封鎖して自己の内側へもぐっていきます。

 深みにもぐって最後に出会うものが「小(しょう)」です。これは「道」そのものです。一見、個人のなかにあるものだから「道」とは異なるもののように思えますが、その区別は多様性レベルにある者の区別であり、最小に見える「小」は実は最大の「道」と同一のものなのです。これは子を知って母を知るようなものだとたとえられています――――これがわたしたちの取りうる「照明」という体験に他なりません。荘子は「座馳」という言葉に対して、「座忘(ざぼう)」を定義します。それは身体のすべての部分が解消され耳目の活動がすべて排される状態で、つまり「道」と合一した状態です。自我は消え、もちろん対象も消えます。対象が消えるというのは、本質的だとされていた境界線が本質的ではなかったとして消えてしまうのです。そうした状態になると、もはや『死者の亡骸のよう』になります。

 合一性レベルでものを見る彼は「真人(しんじん)」と呼ばれます。それは完全な人間だという意味です。

 

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第六節 老荘思想形而上学

 「道」は万物の可能性を包摂していますが、そこには何も対象はなく、意識さえもありません。本来はこれについて何も語ることはできず、「できない」ということさえ比喩にしかなりません。否定というのは肯定する部分があってこそできますし、無いということは有る部分があるからこそできるものです。その意味で、「道」は相対的な無ではなく、絶対的な無と呼んで区別できるでしょう。この相対無と絶対無を概念的レベルで識別するために、荘子は「否定の否定の否定」という論理的装置に頼ります。

 まず第一段階として、多様性レベルでの「有」の否定をします。つまり絶対無とは多様性レベルに存在するようなものではないのです。しかしこれはあくまで相対無に過ぎず、その相対性は除去されなければなりません。そこで第二段階として「否定の否定」が来ます。相対性が除去された時点で絶対的なものになっているのですが、荘子はこれでは満足しません。そこにはまだ有と無の対立の痕跡が残っていると考えられたからです。「有を否定した無の相対性を否定した無」という有と無の対立関係を消し去るために、荘子はさらに否定を重ねるのです。

 真人はこの絶対的な無のなかにいます。もちろん「いる」ということさえできないのですが。そして同時にこの絶対無は多様性を包み込んでおりその存在を予示もしているのですが、何も存在しないのになにかをおぼろげに感じるといったような、象徴的にしか語れないありかたです。真人の「忘却」という見方から少しゆるめて、合一性レベルにありながら多様性レベルを眺めやるような特別な意識を考えることが出来ます。ふつうの意識とのあいだの中間的な段階ですが、事物の境界線はぼんやりとしています。道のなかに内在されていた「多」は、そのそれぞれのなかに「道」を分けて持っています。まさにそのために、あらゆるものは実存的な中核を獲得することになります。人が自らのなかに「小」を持っていたようなものです。それがあらゆるものの中にあるのです。

 さらに真人の見方がゆるんでくると、ようやくわたしたちと同じ意識になります。事物に境界が認識されてくるのです。しかしわたしたちと違って真人はそうした区別が絶対的でないことをよく承知しています。単なる「道」の現象形態のひとつです。普通人であるわたしたちはこの現象形態に幻惑されて、さらに下へとおりていくことになります。それが「正しい」とか「間違っている」とか「価値」とかそういったものです。

 

 

 真人の心理的な側面といったものを記述してきましたが、彼らは平常の意識からまた絶対無の「忘却」へと戻っていくことが出来ます。

 

おわりに

  •  仏教から影響されたのか、仏教に影響を与えたのか、ふたつはよく似通っている。この点については間違いなく研究されていることだろうから、いろいろ勉強が必要なところと思う。少なくとも今のにんじんの目には釈迦も老荘も同じことを言っているように見える。
  •  アヒルに見えたりウサギに見えたりする反転図形を見たことがあるだろうか。仏教や老荘からみれば、にんじんたちは反転図形を「アヒル」にしか見ていない者なのだろう。老荘は必死に「いやウサギにも見えるだろ」と言っているが、にんじんたちは「どうやったらウサギに見えんだよ。これだから狂信者は」とでも思っている。
  •  宗教は偉い人からの言葉を正しいものと前提して進んでいくものだが、ここにはそうした事情があるのかもしれない。わたしたちにはどうしてもウサギは見えないので、「信じる」しかないのだ。
  •  しかし、老荘の議論が大筋でははずしていなさそうだとなんとなく思ったとしても、あるいは釈迦のいうように俗世を捨てて悟りを目指すのもいいかもなと思ったとしても、本当に出家する人はいないだろう。だが哲学の目的のひとつが「いかに生きるべきか」というソクラテスの問いに答えるものだとするならば、どうなるかわからなくてもなんらかの方法を最後には「信じて」みなければならない。その営みはそれを理解しないものからすれば完璧に宗教的である。生殖行為をやめてボロきれを着てずっと瞑想しているなんてふつうの感覚からすればだいぶキている。
  •  わたしたちは「いかに生きるべきか」と考えることによって、まさに「長期的な視野をもって」「反省すること」が正しいことだと既に信じ切っている。「よく考えましょう」という教義にできるだけ沿うのがよいと思っている。反省教である。あるいは、お金をたくさん集めればよいのだと思っている人もいる。「機会損失」というものを真に受けて、暇な時間にすべてバイトを入れる人もいる。現代では、あからさまに「●●神サイコーだよね」と言っているやつはいないだろうが、宗教的なものから手を引くことが出来ない。
  •  ピュロン主義者=古代懐疑主義者はあらゆる主張にコミットしない。自分たちの方法を宣伝もしなけりゃ、幸福に絶対なれますともいわない。反論もしない。やるときは相手の土俵に立って「あなたの言うのが本当だとこうですけど、大丈夫ですか?」と言ってくる。自分は何も言わない。それでいて、表面上はふつうに生きている。*2彼らはなにも正しいと言わなければ間違っているともいわない。信じるのでも信じないのでもない。平凡人である。生粋のピュロン主義者は宗教的なことから身を退いているように見える。しかしながら、そこに至るまでには懐疑教だったことだろう。

 

 

 とはいえ、もとの思想自体ではなく、付け加えられた「お話」に、一般の人が感じる宗教のうさんくささがにじみ出ることが多いのもたしかだと思う。それは思想の根底の考えを信じるか信じないかということですらない。このレベルの話は、にんじんが上に書いたこととは何の関係もない。

 たとえば天界とか言われたら誰だって面食らうはずだと思う。なぜ面食らうのかといえば、十全な説明が果たされないからだ。そんな神秘的な場所をどう知ったのか、どうやって行くのか、空間的な場所なら行けるはずだ、他に証人はいるのか、またその天界と今わたしたちの世界とどういう関係がありその関係はいかにして示されるのか。こんなことは一口に「信じろ」と言われても、量が多すぎる。すべて説明してもらわなければならない。仮に語ることができない領域だとしても、語れるギリギリまでは語り尽くしてもらわなければ困る。「行けばわかるさ」はそのあとでしか聞けない。

 

 

 

 

 

*1:こうした「状態」を持つ対象がなんであるかといえば、「生命」だと思われます。しかし生命もまた混沌の一部のはずで、ここに生命の不思議さがあります。生きていることは病気だ、という小説の表現もありますが、「流れるのに抵抗しようとする存在」が「流動的」なはずの混沌から生まれ、しかも実際は混沌と同一であるのは皮肉なことのように見えます

*2:このあたりの事情は前に記事にしたから「古代懐疑主義」とでも検索してもらえれば詳しく出てくる。