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にんじんと読む「人間の経済1(カール・ポランニー)」🥕 第一章

第一章 経済主義の誤謬

 市場志向の精神が流布してきた誤謬とはなにか。そしてその誤謬が一般の考え方に広く影響を与えてきたのはなぜか―――これを明らかにするのがこの章の課題である。しかしこの課題はちょっとわかりづらいかもしれない。なにしろ、私たちは経済というのが市場経済のことを意味するとそのまま思いこんでいるのだから、市場志向などと言われても、それは経済一般に対する誤謬の指摘だと受け取られかねない。つまり説明したいのは、『経済』というものが市場システムという限定した領域で考えられるようになったという誤謬に至る経緯と、その心的態度がもたらす一般の考え方への影響なのだ

 経済economyという概念は、供給・需要ー価格メカニズムとしての市場機構の出現と時を同じくする。もちろん、市場は太古の昔から存在したし、価格だってあった。けれどもその価格がはたらく範囲は交易(市場)と金融とに限られた。価格はすぐれて安定しており、これを利用して遠隔地間の価格差を利用して利益を生んでいた。しかし供給・需要ー価格メカニズムとしての市場機構という新たな現象は、この価格を不安定にし、自由に変動するようにさせた。あれの価格が変わればこれの価格も変わり、これが変わればそれも変わるという相互依存的な変化はやがて「労働力」や「土地」といった資本にまで及んだ。この最大の変化が将来的な見通しの悪さを産み、この見通しの悪さが経済というものの専門家を必要とするようにさせたのである。

 わたしたちは経済現象と市場現象がおなじものだと思っている。市場の手は労働力や土地といった資本にまで及びありとあらゆるものが商品と化してしまっているし、そうである以上この市場メカニズムはわたしたちに強く働きかけるから。わたしたちの社会にあるすべてのものと、市場にあるすべてのものは見かけの上で完全に一致しているので、ここから「市場経済」、そしてそれに埋め込まれた社会であるところの「市場社会」という呼び名が生まれてきたわけだ。何度もいうように、決定的だったのは労働力や土地といった資本にまで市場の手が伸びたことである。古来、人々は先祖から引き継いできた自分の土地を商品として扱おうなど考えもしなかったし、そこの土地に住まう働き手の農民たちもそうであった。土地や労働に市場がつく、つまりなんにでも価格がつくと、人々は自らが飢えないためにあるいは豊かになるために行動するようになる。そしてまたその行動様式が市場メカニズムを支えているのである。たとえば、ふつう市場というものはリンゴやらミカンやらを売っている。しかしそうした生産物が生まれるのは土地があってのことだし、育てる人がいてのことである。しかしそうした資本にも市場がついたことで、人はタダでビジネスするわけにはいかない。「まず借金ありき」である。借金を変えるためには利益を得なければならない。利益は生産物によって得られる。誰も買わない売らないになれば、つまり行動様式が変わってしまえば、市場システムは崩壊せざるを得ない。

 こうした市場システムに慣れさせられるにつれて、考え方も変わって来た。

  • つまり功利主義的実践、そして人間の動機というものについてのある考え方である。<日常生活を組織する誘因は必ず物質的動機から発生するものである>という見解を私たちは受け入れるようになった。言ってみれば「金のため」で、「金によって買えるいろいろなもの」である。このように書かれると、いや私たちはそうでない動機も知っていると反論したくなるだろうが、一方でそういう価値観が正しいのではないかと信じてしまう傾向が自分のなかにあるのも感じていただけるものと思う。
  •  また、社会の諸制度が経済システムによって決定されるという教説も信じられるようになった。あらゆる人間社会の共通法則、それが市場メカニズムなのだという妄想である。社会階級は市場メカニズムによって、所得などによって定まる。その他の諸制度、国家と政府・結婚と子どもの養育・科学と教育・宗教・職業選択・住宅様式・居住形態・私生活の美的部分などなどは市場メカニズムの作用を妨害しないように行われた。
  •  あるいは、私たちは「合理的」という言葉を歪まされている。合理的行動は、目的を手段に関連付けるものである。しかし目的がなんであるべきか、手段をいかにして選ぶべきかなどは、非常にこみいった難しい問題であり、「経済的に!」といくら叫ぼうがひたすらに空虚である、……はずだった。しかし目的については<功利主義的価値尺度>、手段については<効果を判定する尺度:科学>が、合理的なものとされた。言い換えれば、第一に公園でぼうっと鳥を眺めているよりもレジ打ちをしたほうが合理的であるし、第二に病気をしたときは魔術師よりも医師に診てもらったほうが合理的である、というわけだ。目的と手段の選択は「合理的に」行わなければ損をする。時間の無駄、手に入れられるはずだったバイト代の消滅……。しかし、それは合理的と呼ばれるいかなる普遍的資格も持ってはいない。