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にんじんと読む「超越と実存(南直哉)」🥕 ①~⑥

 

ゴータマ・ブッダ

 なぜ人間は生老病死という問題に苦しまねばならないのか。この問いに関してブッダは「自己」が原因だと診断した。人間と違ってネズミがこれに苦しまないのだから、人間しか「自己」をもたないという診断も含んでいる。

 老い病み死んでしまうという変化は自己という同一性をもったものが考えられなければありえない。ネズミはただ出来事の推移に反応するだけだが、人はこれを変化ととらえ過去との違いに閉口し、嫌になってしまう。あるいは健康で安全無事なときはすっかり安心して苦がないように振る舞う。人が「自己」を「実体」(=変わらない何か)と捉えるという仕方自体がふさわしくないのだとブッダは言う。実体としての自己はアートマン(我)と呼ばれるが、ブッダによればこれがふさわしくないし、もっといえば間違っている。

 アートマンという妄想をもつことを無明(むみょう)という。この状態を成立させるのが言語機能である。言語はどんな違いのある机でも、簡単に「机」とまとめてしまう。これも机、あれも机なので、<個々の物体には「机である」ことを根拠づけるなにものかが内在して>いると思ってしまう。そして同じ理屈で、「私」というものも同一性を保証する本質があると思ってしまう。つまり、言語機能⇒無明である。だからこれを乗り越えようとして「苦行」などしても意味がない。それもまた無明の状態にあることを明らかにするものだからだ。

およそ存在するものは「無常」であり、何ものも存在するものそれ自体を根拠づけない(我はない)。にもかかわらず、「我である」と錯覚することが、「苦しみ」の原因なのである。

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

 この「自己」の構造モデルが十二支縁起である。

言語機能(無明)が発動(行)すれば、それは意識(識)が発生したということである。意識は常に観念や物的現象(名色)などの対象についての意識であり、この対象を言語機能はそれ自体で存在する実体だと思わせるだろう。そのような認識は、認識の主体を要請する。それが眼・耳・鼻・舌・身・意識という六つの感覚・認識器官の構造体(六入)である。通常の我々のものの考え方や認識の枠組みは、この対象(名色)と認識主体(六入)がそれ自体で実体的に存在し、相対しているという図式になっている。この両者の接触触)は認識主体においては外界の感受として知覚(受)となり、知覚にしたがって愛着や嫌悪(負の愛着)という執着(愛)が起こる。その執着が、所有や排除など、対象への具体的行動(取)をとらせる。

 言語機能の発動がこのような「自己」の実存様式(有)を規定するから、それが実際に現実化すれば(生)、それは青年シッダッタが問題にした、老いと病と死を極相(老死)とする「苦」的実存としての「自己」の在り方となる。

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

 

 ブッダ形而上学的な問いには決して答えなかった。これを「無記」という。

 世の中のいろいろの現象がわれわれ人間の言語機能が作り出した妄想だとしても、『実際のところはどうなのか』と現象の向こうについて問うことはできる。世界は永遠に存在するのかいつか終わりが来るのかとか、空間的に有限なのか無限なのかとか、魂というのはあるんだろうかとかそういうことである。しかし現象を超えたところを、有限の存在であるわれわれに答えられるわけがない。この考え方はカントをほうふつとさせる。

 

 以上のことから、「悟り」あるいは「解脱」というものを推定できる。それは言語機能の停止・意識の解体である。もちろん、ブッダは悟ったあともふつうに生きているのだから、悟りとは、無明の発見=<禅定という身体技法で、意識と言語機能を容易に変換させ・解体させることができると自覚することによって>、<「実体」の錯覚から自由に>なることである。

 生きる苦しみから逃れることを望む人には残念なことに、生きている以上はなんらかの「私」を保持するしかない。ブッダもまた、老い、病み、死んだ。彼自身が本当に苦しみから解放されたのは彼自身が消えたときだっただろう。

 

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

 

 

 

アビダルマ、般若経典華厳経典の思想

 ブッダの教えは問題を「解決」するものではない。人はなぜ死ぬのかといったような問題に答えてくれるわけではなく、むしろそういった問題を消し去ることをすすめる。しかし釈尊没後、弟子たちは答えを求め始めた。

 上座部仏教の思想(アビダルマ)がまさにそれである。いろいろの存在や現象というものが実在でないことは教えの通りだが、彼らはそれを五つの構成要素に分け、現象をその集合体と見た。要素分割主義である。ブッダもそのように分析することがあったが、それは個々の構成要素も「無常」だとしたうえでのことだった。しかし、アビダルマの場合、個々の要素を「実体」視している面があった。だとすればこの考え方は古今東西に見られる思考様式ということになる。

 この要素分割主義には共通の難点がある。

  1.  分割したものがそれ以上分割できないと、なぜ言えるのか。
  2.  分割する方法が「正しい」と、どのように認定されたのか。
  3.  第二に関係して、分割する主体自体とその能力の正当性はどう担保されるのか。

 アビダルマが作った分析まとめは『五位七十五法』というが、これもまた上の難点を持っている。

 正当性の担保は、「分析者がブッダと同じ覚者だから」だ。しかし言葉で説明されない「悟り」が同じであると、なぜいえるのか。そこで彼らが持ち出したのは、分析者が至った悟りまでの道のりである。「うちでやってる方法を使えばブッダと同じ悟りに到達しますよ」というわけだから、それはつまり頂上はひとつ、登山道はいくつもある、というような事態になる。

 具体的にはヴィッパサナー瞑想を主にして、ここにいろいろの修行法を突けくわえ強化し遂には悟りに至ることになる。土台は同じなのだがそれぞれ微妙に修行が異なるのである。すると、その方法がブッダと同じ悟りなんだと主張するなら、その方法の正当性をまた保証しなければならない。誰もブッダとは違う人間なのだから、まったく同じことなどできはしない。この正当化など不可能である。また、ヴィッパサナー瞑想は上述の『五位七十五法』を用いて現象を解体することで対象を突き放すことが方法的核心であるから、いまだに言語領域にとどまっている。それがなぜ悟りにいたるのか説明しなければならない。

 

 以上の上座部仏教の「実体」視を批判したのが、対立する大乗仏教である。彼等が般若経典で提示した「空(くう)」は、大乗仏教運動において最大の思想的貢献であった。要約すれば、「空」とは、実体なきものの存在仕方である。

 まず我々が何かを存在するというとき、それは妄想である。それは結局言語の問題に過ぎない。つまり、<「存在する」という認識の「正しさ」は、そう認識し判断する手続きが、どの程度認識する当事者と彼以外の他者に共有されているかによる>わけだ。語られない存在など無意味であり、誰かに語られるから存在はある。「机」という言葉は実体を指し示しているわけではなく、それはその対象との関係の仕方を指し示しているのだ。対象との関係の仕方が他人と共有されると、あるものが最初から「机」に見える。「机がある」ことになる。これが妄想のメカニズムである。

 すべてのものはその本性としては何ものでもない。すべてのものは「空」である。ことばでそのものを捕まえたと思っても、捕まえたことにはならない。しかしこの「ことばでは表現できない」と表現された「空」もまた、対象化されている。表現できないものとして理念化されているのだ。この発想が「空」を万物の根源としてみる『華厳経』の思想へと繋がっていく。

 

 すべてのものは空なのだから、「空」とは万物の根源でもある。それはインド古代思想におけるブラフマンと同じである。このように万物の根源として実体化した「空」が導く世界観は全体論的なもので、すべてのものは空をとおしてすべてがひとつに繋がっている。すなわち、全存在がすなわち仏と同一なのだと考えが進められる。仏は全存在に内在するわけだ。このことは、<悟りを求める志を起した瞬間、すでに人は悟っている>という思想として現れる。空はもはや形而上学的な超越理念である。だが本来の空思想は、存在の根拠を実体視する、その語られ方が問題だと自覚することだったはずである。

 

 

法華経、浄土経典、密教経典の思想

 通説に従えば、大乗仏教経典は紀元前後に『般若経典』、やや遅れて華厳経典、『法華経』、ほぼ時期同じくして『浄土経典』が作られた。

 

 法華経の最大テーマはブッダとその教えの「絶対性」、そして法華経は「唯一絶対」と主張することである。すなわち、①普遍性=誰でも悟って成仏できる、②永遠性=ブッダとその教えは無限の過去から未来へと存在し続けている、③唯一性=数ある経典のうちで法華経は唯一絶対。しかしそんなことはことばで証明することはできない。ゆえに法華経においてはさまざまなエピソードを用いて、そのことをわれわれに説得してかかる。もちろん、いきなり現れた法華経が唯一絶対だといわれたらみんな困惑するが、法華経においてはそのこともキッチリとたとえ話を用意している。

 誰であろうが悟って成仏できるという予言は「授記」という。法華経にはその力があり、経典自体を崇めるだけでも成仏できるとされる。そしてまた法華経ブッダを著鬱的理念的存在にした。上座部仏教が経典を独占的に解釈していたので、それを広く信者に開放したのだ。ところが超越的理念的存在のブッダが死ぬはずはない。見かけ上死んだように見えるが、それはその存在を隠し、「ブッダがいるから」とわれわれを油断させまいとしたのだ。

 刺激的な経典だが、当然三つの側面どれをとってみても反発される危険性は大きい。迫害される危険性がある以上、それを布教する人もいやになってしまうかもしれない。というわけで、布教意欲を鼓舞するために法華経では「法師」という布教の使命を帯びた修行者を登場させている。絶対性を主張する教説は、どの宗教においても、このような実践者の存在を必要とする。

 

 仏教は「凡夫が修行して悟る」宗教であり、一神教などに見られるような「絶対者を信仰すれば救われます」といった救済はない。この意味で、法華経は仏教に「救済」というものを強く押し出した。しかしそれでもなお「救済があるので頑張る」というようなサポート役になっていたが、『浄土経典』になるとサポートを超えてくる。

大方がご存知のように、「浄土経典」のパラダイムは、「極楽浄土」という世界を主宰する現存の「阿弥陀如来」が、教えを信じて浄土に生まれたい(往生)と願う衆生を招き入れ、人間世界の苦境の中では実践困難な修行の便宜を図って、最終的に浄土で成仏させる、というものである。

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

  極楽浄土には一切の苦しみがない。その世界に生まれる者は成仏した人である。往生する=浄土に生まれることと成仏とか一致する。往生するためにはどうするかというと、ただ往生したいと願うだけでいい。なぜそんなことで往生できるかというと、法蔵菩薩という過去の修行者の「誓願」のおかげだ。つまり誓願を信じて往生したいと願うのが往生の方法だ。このことは大きな修行の切り下げとなった。この誓願理論では当然信じることが主題になり、このことが中国浄土教法然親鸞の思想に影響してくる。

 

 インドにおける大乗仏教、最後を飾るのが密教である。ブラフマンアートマンの一致が目指される。密教はそもそも教主が釈尊ではなく大日如来である。大日如来という超越的存在の身体・言語・精神を如来と一致させることが成仏である。

 まず身体については両手でさまざまなジェスチャーを行うことで如来を象徴的に身体化する。言語については聖典の文句を如来が語る真理の言葉(真言)として称えることで如来に同化する。精神については本尊を観想することで如来のさとりの境地に入る。これらの実践による一致が実現すれば、如来の究極的境地と世界観が現前し、曼荼羅として図像化される。

 ところで、「真言」というのは如来が作ったものでも如来が誰かに作らせたものでも如来が制作に参加したものでもない。真言はそれ自体として存在するものなのである。

 

 

 

竜樹と無着・世親の思想

 ブッダ以来の無常・無我・無記・縁起と般若経典の空のアイディアを決定的に拡大したのは大乗仏教最大の思想家である竜樹である。竜樹は言語批判という方法を用いて、「実体」の否定を行った。しかし無いことを示すのは何ごとにおいても無理である。せいぜいそこでいえるのは、あるとは言えない、ということでしかない。すると、無いことの主張は「あるとも言えず、無いともいえない」という判断停止―――無記———でしかありえない。

 ブッダは無記を形而上学的な問いについて行ったが、竜樹はこれを人間の認識一般に拡張した。話は「机がある」というようなことだけではない。人間というのは言語を用いて世界を認識するのだったが、その認識自体を攻撃する。言語が正しく世界を認識していると考えるためには、その言葉の意味するものが個々の事物や現象の在り方を規定する「実体」や「本質」なのだと断定しなければならない。なぜなら命題の正しさというのは、世界がまさに記述されている通りにあることだろう。つまり、認識には世界という正しさを保証する根拠があることになる。<するとこれは、一方に「実体」的対象世界があり、他方にそれ自体で成立している認識主体がある、ということの形而上学的二元論のアイデアになる>。竜樹の書いた『中論』は、実体視してしまうという錯覚を根源的に言語の問題だと捉えている。唯識ではこれをアーラヤ識という。それは「認識が存在を生成する」という理屈の根幹を成す。

  言語で言語を批判することには危険が付きまとう。「空」それ自体を最高の真理として、言語で表現できないものとして形而上学的実体を呼び込むことになる。

この危険を回避するには、言語化が必然的に引き起こす実体視に対して、禅定で確保された実存の視座から、言語による批判を不断に続ける以外にない。

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

 

 

 

 

中国仏教の思想

 インドにおける仏教は十二世紀末のイスラム勢力侵入以後、急速に衰退する。しかしすでに仏教は「北伝」「南伝」の二つの大きな潮流に分かれてインドを飛び出していた。この伝播のなか、特に中国において、仏教は新たに思想的な展開を迎える。

 中国には既に思想が存在していた。それは諸子百家のもので、その著しい特色は、<超越的理念を持ちながら、人格性を帯びた「絶対神」的観念を持たないこと、そして「死後の世界」や「前世」「来世」など、現実世界とは別の存在界の設定に、ほとんどまったく関心を示さない>ことである。

 そのなかで老荘思想は中国における仏教受容に決定的な影響をもたらした。中国の人々は老荘思想を利用して仏教を理解したのである。たとえば老子形而上学的根本理念である「道」は万物の根源であり、そこからすべてが生まれる。この根源的実在からすれば、我々が認識可能な個々の存在は実体をもたない。つまり究極的にはすべてのものは「道」に帰るという点で同一なのである。仏教の「空」というものをこれを用いて解釈したものを格義仏教という。ところが見て来たように、ここで出てくる空はあらゆるものの存在根拠としての空であり、実体的である。

 空というものが諸存在の実体性の否定であることは共通理解であり、存在としては関係から生起する。しかしこの関係というところが『中論』解釈からずれていく。AとBの関係というとき、A・Bの存在が無条件に前提されそのあいだに関係が成立すると考えられてしまっているのだ。すべての存在は相互に関係しあい依存しあっているのが空であり、個々の存在は「一体」の一部分であり、一体性こそが「空」の実質的意味と化す。

 

 

老荘と仏教 (講談社学術文庫)

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空海空海以前

 仏教以前の日本の思想から見よう。まずは『古事記』である。古事記の特徴は超越的理念を一切持たないことである。神であっても天地であってもともかくなぜかはわからないが、ともかくそういうものとしてそこにいる。そこには存在根拠など何も出てこない。また、彼らは要するに超能力を持った人間であり、列島の人々と血縁関係にある。実は古事記には「死」すらない。黄泉の国が出てくるが、要するに現世と地続きなのである。

このような『古事記』の特徴は、アニミズムによく見られるアイディアである。すなわち、自然発生的に成立した地縁血縁共同体の由来を説明し、内部の秩序を正当化する物語的言説になっているのだ。

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

  存在根拠を必要とするのは、地縁血縁とも違う異質な共同体との相克があってこそである。もし異質共同体が小規模なら地縁血縁で取り込んでしまえる。日本がしばらくの間そのままでいられたのは「列島」だったという地理的条件のためである。

 

 仏教が六世紀頃に導入され、聖徳太子によって仏教を仏教として理解され始めた頃のことである。仏教は為政者の統治システムの正当化イデオロギーとして受容された。仏教そのものの思想的展開は最澄空海頃まで見るべきものがない。

 一般人が仏教を学ぶ共同体(サンガ)に参加する場合、日本の国家によって制度が作られていた。上座部の仏教ルール(具足戒)と大乗仏教のルール(大乗戒)を国の指定する寺で受戒しなければならなかった。最澄がおこなったのは、具足戒を捨てることである。それによって国から自立し思想展開が準備された。

 密教の『大日経』『金剛頂経』等から思想的核心を抽出して理論化したのが空海である。<それは取りも直さず、日本において初めて、思想と実践の全体におよぶ形而上学的体系を樹立したのが空海なのだ、ということである>。空海の理論で独創的なのは、言語が実体を表すのではなく、言語がそのまま実体なのだという言語観である。如来の言葉はなにかを言いあらわしているのではなく、そのものを出現させているわけだ。真理は「真言」=如来の言葉で現実になるのである。

 

空海に学ぶ仏教入門 (ちくま新書)

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