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にんじんと読む「ハイデガーの根本洞察(仲原孝)」🥕 本来性の謎①

本来性の謎

 『存在と時間』における現存在分析の重要な課題の一つは、現存在がたいていの場合に陥っているとされる非本来的実存を克服した本来的実存とはいかなる実在様態なのかを明らかにすることである。ハイデガーはこれについて正反対の主張をしているように見える。

  1.  一切の自他関係の途絶した実存様態
  2.  積極的な自他関係を可能にする実存様態

ハイデガーの混乱

 本来的実存を、他者と没交渉的状態とする発言がある。それは他者との一切の交渉断絶、徹底的な単独化として語られる。彼自身、自己の立場を「実存論的独我論」と呼んでいる。ところが一方で、ハイデガーは本来的実存に積極的な自他関係が属するという旨の発言をすることもある。そうしてその発言は並列して記述されることさえある。

 これら二つの発言を整合的に解釈することができるのだろうか。つまり、<現存在は実存論的に配慮や顧慮という構造をもつからこそ実存的に配慮や顧慮を欠くこともできるのだ>という風に。しかしそうすると本来的実存に到達するためには、「本来」もっているものを「失う」ことが必要であり、それを「本来的」と呼んでいることになる。本来的実存に到達したときの現存在が存在者をいかなる仕方で理解しているかがとても重要な問題なのに、混乱してしまっているのである。

 

頽落という概念① ひとへの自己喪失

 現存在は実存を本質とする存在者であった。実存とは自己関係的ということだったが、ハイデガーによれば、現存在はたいていの場合、自分自身から目を逸らしているのである。現存在が自己をはかる尺度は「ひと」=「この人でもなければあの人でもなく、自分自身でもなければ、幾人かの人々でもなく、万人の総体でもない」ような不特定・匿名的・中性的な他者、である。「ひと」との隔たりの大小によって自己を測り、その隔たりをできるだけ小さくして、平坦化しようとしている……それが日常的な現存在の実存様態なのだとハイデガーは言う。こうした実存様態は「ひとへと自己を喪失していること」と呼ばれる。

 「喪失する」という言葉の意味をつかむためには、<現存在の存在が当の現存在自身がいかなる自己理解をもつかとは無関係に客観的に存立しているものではない>という事態を見失わないことである。現存在の自己理解が現存在の存在を構成する本質的契機であるから、「ひとの自己」こそが真の自己だと思い誤っているならば、現存在は本来的な自己性を現実の実存上で喪失してしまっており、「ひとの自己」そのもので在る存在者になってしまう。

ハイデガーのいう「ひとへの頽落」とは、以上のような意味で自己と他者との区別そのものが実存しなくなっているような実存様態を意味しているのである。

ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克

  〈頽落〉というワードを説明するのに、「ひとへの自己喪失」と並んで、「『世界』から自己を理解する」という定式化がよく使われる。