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にんじんと読む「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて(熊代亨)」🥕 第一章途中まで

はじめに

 かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現してきた。だというのに、私たちは「あの頃」よりも幸福になれたようには思えない。なぜだろう。

 

第一章 快適な社会の新たな不自由①

 歩行者は右側と書いてあれば、例外もいるがたいていの人は右側を歩こうとする。逆に言えば、そうした秩序があるところではその「当たり前」からはみ出して生きるのは難しい。清潔さや美しさについても同じことである。こうした秩序・清潔さ・美しさはそれに適応した人々には快適さしかもたらさない。だが世の中には無理してこれに合わせようとする人がおり、そうできなかったときに罪悪感や劣等感を感じる。

 そういえばいまどきの子どもたちは行儀が良い。統計的にも未成年者の逮捕・補導件数は減っている。また彼らは身ぎれいな格好をしており、危険な場所で危険な遊びになど出かけない。ところがその一方で、私たちはいじめや発達障害、虐待などはその定義さえ変わるなど、たいへんな注目を浴びている。

街が安全で清潔で快適になっていくのと並行して、また、街で見かける子どもが秩序に適合していくにつれて、そのような子どもを育てるプロセスに医療や福祉のメスが入れられるようになり、と同時に、子どもの心理発達にまつわる諸問題が多くピックアップされるようになり、医療や福祉によるサポートの対象とみなされるようになったのである。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  当然のことだが、虐待やネグレクトなどが察知されサポートが行き届くようになったのは良いことである。しかしそのぶん、親の資質が厳しく問われるようになった。子育ては街の「快適さ」に適合するハードルを超えなければならず、私たち自身もよその親に対してそれを求めている。はみ出した子どもは軌道修正されなければならない存在となり、医療・福祉、ときには司法までもが出てくる。

 さて、子ども、子育てがこうなら社会人もそうである。サービスの質のあたりまえが上がるにつれ、要求はどんどん上がっていく。従業員は特別に高い給与をもらっているわけでもないのに、テキパキ動き、笑顔を絶やさない。たいへん礼儀正しく、若い人は権威をかさに威張り散らしたりしないし、コミュニケーション能力が高い。ところが本当はコミュ力が高いひとばかりではないのは周知の事実である。彼等はどんどん活動の場は制限され、目につきづらい場所へ追いやられているのだ。昔はもっと非効率的で、コミュ力も不ぞろいだった。就活でなによりもまずコミュ力を重視される現代よりも、ずっと優しい社会だったように思える。

 

 さて、社会が快適になるにつれ期待される能力もまたハイクオリティ化していく。そして要求水準に満たない人はどんどん隅に追いやられ、活躍の場を失う。だがわたしたちには救済があるのではないか。たとえば医療や福祉が社会復帰や就労を手助けしてくれる。

  1. ところが当然のように、医療や福祉が「さあ、行って」と指さすのは、要求水準の高いあの社会である。彼等が為しているサポートはたいへんに重要なものだが、彼らの仕事はこの快適な社会のなかへの再配置である。
  2.  そしてもうひとつ。医療や福祉の救済対象は「弱者」「マイノリティ」と認識されているものである。それ以外のものは助けてはくれない。たとえば境界知能(IQ70~84)の人々は援助の対象となっていない。統計的にいうと、全人口の一割以上が該当する。全員対象にしたらサポートする側が潰れてしまう。それに、境界知能の人々は高学歴や高収入にアクセスしにくく、リボ払い・廃課金など消費においても食い物にされやすい。そして食い物になったのは「お前がちゃんとしてないからだ」と言われる。

 彼等の存在は目立ちにくい。生きづらさをディスカッションや運動を通じて自己主張できないからだ。そして自己主張がないとサポートの対象にはならず、「生きづらさはない」とされてしまう。

 

 医療や福祉が救済をとりなしているのだから「健康」に対しては徹底している。人々は医療の啓発運動によって健康リスクに気を払うようになった。私たちの社会の寿命はどんどん延びている。しかし、こうも言えないだろうか。

私たちはかつてないほど健康で長寿になったと同時に、健康で長寿にならなければならなくなったのではないか。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  いま、健康リスクにいい加減な態度をとることは医師の指導の対象である。健康に気遣うことは義務であり、長寿は望ましいものである。『どうしても生きなければならない目的があって健康長寿を目指すのはではなく、健康長寿を当然とみなし老後資金を蓄えるために身を粉にして働く現代人の生きざまは、過去の人々には不可解なものと映るだろう』(健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて)。

 

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」

私たちは大変自由度の高い、多様な社会に生きている。それは諸々の進歩のおかげなのだが、その進歩が何の留保もなく私たちに自由を提供しているわけではない。これまで記したように、私たちは進歩した社会にふさわしくいられるよう、つまり就労能力も、清潔さも、行動や振る舞いも、安全・安心な社会に見あったものであるよう、暗に期待されている。医療や福祉によるサポート、学校教育による規律の訓練、法制度といったさまざまなものが、社会から逸脱しそうになる人間を社会へと引き戻す。空間設計からの影響もその一部と考えて差し支えない

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 上の引用は最終章である第七章からであるが、この本のメインテーマを表現していると思う。不自由さとは、つまりハイクオリティ化する社会に「適合しなければならない」という不自由さのことだ。この本に書いてあることは、たとえばイヴァン・イリッチとかによってけっこう前から言われてきた『進歩したよね。でもほんとに進歩してる?』というものである。進歩以前に戻れないことを認めつつ、じゃあどうしていきましょうか、というあたりで締めくくられる。「あれ? なんかおかしくね?」と思い始めている人にとってよい相談相手となる本である。

 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)