釈尊は絶対者や、生きた神ではなく、一人の人間だった。
だが釈尊の神格化そして教団の権威主義化は百年後には確実なものになった。これまでは釈尊のことを気軽に「ゴータマ」や「君」と呼んでいたのだが、そのように呼んでは長期間にわかって不利益なことと激しい苦しみを受けるだろうと恫喝しさえした。釈尊の神格化とともに、小乗教団は出家者の修行の困難さを強調し在家の者には及びもつかないものだということを強調した。「その出家者ですら仏に近づくことしかできないのだからお前らときたら」という意味で、出家者を権威づけたのである。しかし原始仏教においては明らかに在家のままで悟りを認めていたのである。ところが小乗仏教にいわせるとブッダになれるのは釈尊ただ一人である。また彼らは女性は穢れていて成仏できないと言い始めた。しかし原子仏典では女性も悟っている。
以上のように、釈尊入滅後五百年『法華経』に至るまで教団は大きく変化した。法華経は小乗仏教に対して、「原点を見直してみろ」と言っているのである。釈尊は差別や階層を生み出すために教えを説いたのではなかったはずだ。