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にんじんと学ぶ「心という場所(斎藤慶典)」🥕 序章

 

序章 「現象する」とは何の謂いか

 私たちの現実はどこからどこまでも「現象すること」を基盤として成り立っているのだ。

心という場所―「享受」の哲学のために

  哲学をはじめるにあたって、にんじんとしても出発点としたいのはココです。「何ものかが何ものかとして現れること」すなわち「現象すること」が、まずはじめに据えられるのが妥当でしょう。なぜなら、にんじんたちはいつも出来事の渦中におり、そこには何ものかが現れているからです。眠っているときはどうなのか、と言いたくなるかもしれませんが、その眠っているというまさにそのことを私たちは考察することができています。

  •  現象する=何ものかが何ものかとして現れる

 私たちはすでにこの内に、ひとつの観察を得ることができます。即ち、「何ものか」という区別は既に行われているということです。何ものかが区別できているということは、何ものかと何ものかでないものの境界線が引かれているということを意味します。

 これを単に《分割》と呼びましょう。逆に、この《分割》が行われるとき、《現象》もまた起こっているといえます。そしてまた、次のように考えることは自然でしょう。「《分割》を行う当のもの」がある。即ち、《現象》はいつも何かに対して現れる。

  1.  何ものかをPとしましょう。Pは他を地としてその上に浮かび上がる図です(””図と地””の意味は検索してください)。PがPとして現象するためには、Pの同一性が成り立っていなければなりません。つまり「PはP」であるわけです。ですが現象してきたオリジナルのPはどこでしょうか。「PはP」の第一項目ではありません。なぜならそこで既にPと呼ばれている以上、Pは現象しているからです。これに対して自然な説明を与えるならば、PがPとして現れるということはPがP自身をPでないものとして指し示すということになるでしょうか。これが同一性を支える構造であり、この構造を《記号》と呼んでおきましょう。
  2.  さて一方、Pはそのほかの事態がなければ現象できません。Pは《分割》の結果浮かび上がったものであるからです。たとえばQやRやS等々といった事態が考えられるでしょう。そしてもちろん、Q,R,Sもまた、それが現象するとき(浮かび上がるとき)にはPという事態がそれを支えていることもあります。これは「すべてのすべてに対する相互依存関係」と示しています。
  3.  私たちがこれから考えるのは、「地」の部分です。たとえばノートが現象しているとき、テーブルが地になっているかもしれません。このテーブルはもし私たちが望むならば現象することができます。しかし一方、「地」のなかにはこれまで一度も現象したことのないものもあるはずです。この「現象しうるもの」と「一度も現象したことのないもの」という区別において、後者はいかに位置づけられるでしょうか。というのも、「一度も現象したことのないもの」は当然姿を現わしたことがないため、現象したものPと同様の扱いは難しいからです。
  4.  「一度も現象したことのないもの」にも同一性はみられます。というのも、それは「地」に含まれているからです。「地」は現象します。もし望むなら、花瓶を見ていた目の焦点をぼかしてその背景に目を向けることもできるでしょう。しかし、「一度も現象したことのないもの」もそこにあります。それはたとえば私たちの場合、知覚の限界かもしれません。ともかく、それを《分割》できないのです。しかしたしかにそこにあります。これを《空》と呼んでみれば、地は現象しうるもの+《空》で成り立っていることになります。しかし《空》は現象していません。といっても、無ではありません。現象することへと赴かんとするある種の力だけがそこにあります。この力については第三部第七章で語ることになるでしょう。この潜んでいる力というのは、たとえるなら「シュレディンガーの猫」のようなものです。猫は生きているか死んでいるかわかりません。どちらも現象してはいませんが、どちらかが現象します。
  5.  PがPとして現れるということ。そこには《分割》という亀裂だけでなく、「地」のなかに潜む《空》もなければなりません。それらが、現象ということを可能にしているのです。

 それでは次に、「現象を見て取るもの」について考えましょう。このことはただちに「何ものかが現象するのは特定の視点に対してである」ということを教えてくれます。つまり、ただ現象のみが存在するということはありえないのです。すなわち、現象を見て取る者なしには何ものも決して現象しない

 けれど、この「現象を見て取る者」はいま、わたしたちにはっきりと現れています。私たちは「自己」をどのようにして見つけたのでしょうか。なにしろ、リンゴを見ているとき、リンゴが現れているときには、決してその「視点」は現象していないからです。このために私たちは私たち自身と距離をおいて、リンゴを見ている私たち自身を現象させなければなりません。

 距離のとりかたには二つの方法がありそうです。①時間的、②空間的。①時間的とはつまり、自分がリンゴを見ていたという行為を振り返る、というものです。②空間的とはつまり、他人の行為を見てそれを自身に引き移す、というものです。

 

 《空》にはエネルギーがありました。この秘められた状態を「存在」と呼ぶことにすれば、「存在」は「現象」へと突破するものであり、この様子を「自己」が見ていることになります。ここにはいつも「自己」がいなければなりません。「存在」から「現象」への矢印を繋ぐ者は「自己」なのです。