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にんじんと読む「分類という思想(池田清彦)」🥕 第二章(おわり)

第二章 何をどう分類するのか

  •  客観的な分類方法を求めて。でもそんな方法なんてあるのか? これについては一つの神話がある。すなわち「事物を分類するには、自然の秩序に従うのが最も合理的である」という神話である。
  •  役に立つ・役に立たないといった分類は自然分類とは違う。「自然分類の基準は人間の都合とは無関係な自然物の名か価値中立的なものでなければならない」(第一の条件)
  •  脊椎がある・ないという分類は一見わかりやすい。しかしティッシュも机も脊椎がない。これは明らかに””その他””として雑に括られてしまっている。「等価な自然分類群を作るときにはA・非Aという分類方法は採用してはいけない」(第二の条件)。しかしこの条件はあまり守られてはいない。

 しかし結局、分類基準はどんなものでも人間の認知によってえらばれている。たとえば赤色とか青色とかで分けたとしても、それは人間の認知パターンによってそうなっているのであって客観的な基準にはなりえない。というわけで人間特有の認知に、””できるだけ関係のないもの””を選ぼうとする。目指しているのは客観的な、視点によらない分類であるからもしAという基準を選んだとすると、自然に生じる非Aという基準もAと同じぐらい重要なものとして扱わなければならない。というのも、非Aのほうを主に認知し、Aこそネガティブにしか認知できない生物があらわれると困るからである。

  •  さて、いまAとBという適当な性質を基準に選んだとする。すると集合論的に16通りのグループに分かれる。もし性質がn個なら2のn乗個グループが分かれる。
  •  「人間の認知パタンから自由である限り、すべての対象は同じぐらい似ている」。つまり対象を差別しないので全部点である。というか差別しないからこそ、16個の性質の組み合わせをもつグループ(というか点)を考えなければならなかった。もし””Aという性質を持つ””””持たない””で分類すれば二つで済むところ、Bまで考慮に入れたせいで「これはAを持っているから似ているね」ということができず、「Bがあるから違うものだ」となってしまう。言ってしまえば、見た目は完璧に同じ物体なのに、顕微鏡で見てみると片方にホコリがついているので違うものだとみなすわけである―――こんなことをしていたら分類にならない! どこかであきらめて「同じじゃん!」と言わなければ分類など一生かかってもできず、「これとこれは違うものです」と永久に言い続けることになる。

人間の認知パタンから独立した客観的性質をことごとく選んで、それらを等価とみなす限り、そもそも分類という営為は成立しないのである。逆に言えば、分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。ア・プリオリに重要な基準などはない。従って分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。

分類という思想 (新潮選書)

 

知るということ 認識学序説 (ちくま学芸文庫)

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  • 作者:渡辺 慧
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 文庫