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にんじんと読む「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム(保坂幸博)」🥕 第四章~第七章

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

第四章 歴史上の宗教の「発見」

第五章 ヨーロッパが見た他宗教とその理論

第六章 日本固有の宗教

 というわけで、キリスト教徒たちが日本という「極東」の国の宗教をいかにして見るのかを確認しておきましょう。彼等は私たちの宗教を「アニミズム」ということばに当てはめます。結論からいえば、それを私たちに当てはめるのは不適当だと思います。

  •  アニマというのは、何らかの霊的な存在を表します。動物はアニマルといいますが、それは動物のなかにあって動物を動かすものを「アニマ」として想定しているからです。
  •  アニミズム理論は19世紀末に活躍したエドワード=バーネト・タイラーである。彼によれば、未開人が霊魂を信じた理由の一つは「死」だろうと推測します。死んだら冷たくなって、うごかなくなるため、この衝撃が霊魂の観念をうんだのだとしました。
  •  「身近な人間の死」から霊魂の存在を信じ、「人間以外のあらゆるもの」に霊魂の存在を拡張していった……というのがタイラーの話の流れです。
  •  「日本人が自然の中にあるもの一切に魂が宿っていると考えている! これはアニミズムだ!」というわけです。とはいえ、私たちはたいていそんなものを信じてはいませんし、信じてはいなかったでしょう。しかしそれでも、「日本人が自然を崇拝する傾向をもっている」点は、日本人学者においても異議はあまり出てきません。というか、日本人の宗教の本質だかなんだかについて語ろうとすると、必ずと言っていいほど自然崇拝と言い出す始末です。
  •  しかしそもそも、自然を崇拝するって何を崇拝しているのでしょう。自然というのは人の手が加わっていないようなものとも読めますが、そんなものはどこにもありません。たとえば樹齢何百年のナントカとか世界遺産のナントカ山地とかはありますが、ああいうのだけ数えたらどれほど「自然」が少ないことか―――――「自然を守れ!」という言葉もそうですが、自然ってなんなのだろうというのは考える必要があります。水田や畑は自然でしょうか。
  •  ちなみに、キリスト教は最初から「自然の管理」を打ち出しています。自然は人間の役に立つように神様が作ってくれたのだというわけです。

 さて、それでは日本人の実際の様子に目を向けてみることにしましょう。それは「山への崇拝」です。

  •  19世紀末にイギリス人が日本に来て、「日本アルプス」という高山地帯を歩き、地域を紹介する本を書きました。彼は「日本アルプス」を発見したのだとして上高地では祭りもひらかれています。
  •  とはいえ、そのイギリス人が何を発見したのかはいまいちわかりません。日本アルプスは富山、長野、岐阜にまたがる高山地帯ですが、彼が来る以前に日本人がその存在に気づかなかったわけはありません。だとすると、彼がすごいのはそこを登頂してみせたことなのでしょうか。いいえ、そもそもその山々は古くから崇拝の対象となっており、頂上にはお社があります。
  •  何が言いたいのかというと、「山」に対する観念が日本人とイギリス人で違っていたということです。このイギリス人宣教師にとって登山はスポーツの一種としてあった。一方、歴史上の日本人登山者はその山を崇拝の対象としていた。登山は宗教的実践だったわけです。
  •  日本人の山々の崇拝は相当な前から見られたでしょうが、それが一定の形を得始めたのは外来の宗教———山に対する崇拝それ自体ではないもの――を必要としました。つまり仏教です。
  •  そもそも本来的な仏教は山はもちろん自然物に関心などありません。しかし伝播の過程で、その土地の伝統的主教を取り入れ、同化していったのが仏教です。キリスト教は他宗教を排斥しましたが、仏教は自分たちを浸透させるためにそこの「崇拝」を取り込んだのです。神社のような施設をほかの宗教と比べてみると、なんと自然の要素を感じることでしょうか。

 日本人の「山への崇拝」は仏教の要素によってもともとのあり方が見えづらくなっています。仏教は古くから国教として、政府の政策に絡めてその地位を確立してきました。それ以前にどんな風だったかをみるのはなかなか難しいことです。たしかなのは、そこには呪術的なものがあり、仏教という国際スタイルを定着させたい政府にとっては邪魔だったということです。その様子は明治維新以前にもたしかにあったはずの「医学」をすっかり捨て去り、「西洋医学」を国際スタイルとして定着させたことを考えれば納得がいきます。

 ところが、政府の宗教政策が仏教を広める中で、伝統を守り続けてきた人々がいます。彼等の登場が私たちの目に見えるようになるのは12世紀頃のこと。彼らは「山伏」と呼ばれます。彼等は誰もいない山の中に住み着き、そこで寝起きし、そのなかで生活しました。このようにすることで、人並外れた能力を身に着けることができると考えたのです。自然が与えてくれる力を全身で吸収するこの宗教的実践方法を「修験道」といいます。

 さて、山伏が目立ちだしたということは、仏教にとっては脅威です。というわけで、仏教はこの動きに積極的に対応し、山岳の修行場を開拓し始めました。いわば仏教による山伏の””囲い込み””です。ところがどれほど仏教による組織化が進んでも、山伏には非仏教的な雰囲気が残りました。それはやはり、彼らの崇拝対象が「自然」であるというところなのでしょう。

第七章 日本人の自然崇拝

 山伏のような人々はともかく、「日本人全般が自然を崇拝している」といわれるのは妙に感じられます。でもそれは、日本人の自然崇拝がいかにも宗教だという形をとってはいないからです。人々は常に自然のイメージを心に抱き、そのイメージと関連させる形で、生きていくスタイルを作り上げてきました。日本人の自然崇拝は根本思想なのです。

  • このことは詩文学等の領域で見出すことができます。また日本庭園、盆栽、植物、生け花等もそうでしょう。たとえば盆栽をみてください。自然の中にある松のミニチュア版です。欧米人には常軌を逸しているように見えるでしょう。あるいは、道端の、アスファルトの隙間にある小さな地面にたくさん草花を植えてみたりします。自分の家が狭くても、花を飾ったりします。
  •  医薬品に関しても、私たちは「自然なもの」を好みます。ビタミンCを得るために錠剤ではなくミカンからとろうとするのです。人工の医薬品を警戒し、たとえ効き目が劣るとしても漢方を使ってみようという気がするのです。製薬会社の宣伝は、いかに「生薬」であるかを競います。
  •  また、キリスト教文明圏では、意思決定の一歩はその人が踏み出すものです。どんなに環境が苦しく迫ろうが、それをするかどうかはその人の完璧な自由だと考えられています。一方で私たちの生活は「仕方がない」があります。
  •  自然な心情とか、「自然性」を重んじます。親が子どもをいつくしむ気持ちは自然のものなので、多少不都合があっても、許容すべきだろうという考え方もあります。また、酒の席でぽろりと言ってしまうような自然な心情の表出のほうが重みがあります。論理的だとか理性的だとかより、その人の心からの気持ちのほうが重大なのです。アメリカでは酒を飲んでもまるで飲んでいないかのように振る舞わなければなりません。理性は保たなければならないので、酔ってはいけません。しかし日本人からすると、「酒を飲むと酔うのは当たり前なのに何のための酒を飲んでるんだ?」という気分がします。

 西洋思想の流入によって、伝統的な考え方が「恥ずかしい」という気がされだしています。たとえば見合い結婚もそうです。昔は自分が選んだものとは関係のない相手と成り行きで結婚させられたりしたものですが、正直、若者たちの手に余っているようです。

男女両性がお互いの意志を確認し合い、自分たち以外の外の要素を一切排除して、結婚の決心をするというスタイルの恋愛は、まだ戦後に輸入されて、最近ようやく市民権を得たばかりの、いわば孵化したばかりの幼い思想であって、我が国の若者たちの手に余ります。結婚のために、二人が共同して意志を決定していく際のプロセスや、恋愛にまつわる様々なルールなどは、何一つ身についていません。

日本の自然崇拝、西洋のアニミズム―宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い

  自分の意志のみによって人生の大事を決定していくこと。

 私たちはまだこれを自分のものにしていません。大学の専攻もわからず、なんとなく大学に入り、なんとなく職業を選び、なんとなく働き続けることなどよくあることです。

 

 

 大事なことをいいます。自然崇拝における「自然」というものは、山だの川だのといったものには限られません。ものの考え方の自然、感受性の自然、そのような内面的なあり方にも用いることができるものです。

 

日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

山岳信仰 - 日本文化の根底を探る (中公新書)

 

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