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にんじんと読む「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム(保坂幸博)」🥕 第八章+第九章+ここでおわり

第八章 「人間中心主義の宗教」と自然崇拝

 「日本人の自然崇拝」は「人間中心主義の宗教」とは根本的に異なります。さらに踏み込んでいえば、キリスト教とは原理的に異なります。すなわち、キリスト教文化圏で発達してきた宗教学理論では日本人の自然崇拝は掴み切れないのです。何が言いたいかといえば、自然崇拝研究にアニミズム理論は役に立たない、ということです。

  •  アニミズム というのは 霊的な存在を表すラテン語のアニマに由来するもので、原始的な民族は山川草木の自然物に霊的なものが宿っていると考えていると解釈したのでした。これはタイラーが提唱した理論です。
  •  さて、タイラーはこうもいいました。「アニミズムっていうのは宗教の一番初めの段階だ」つまりは、こういう意味です。「アニミズムにすら達してない民族は人間じゃない」この考え方にはダーウィンの進化論の影響があります。宗教学においても、人々は””原初の状態””を追い求めていたのです。

 でもキリスト教は進化論をまったく受け入れていなかったはずです。そうだというのに、キリスト教は進化論をその根底から支えていたのです。それは彼等の「直線的な時間」観念です。今という価値ある状態に辿り着くためには、どこかから始めなければならないのです。低級な状態から高級な状態へ。*1

  •  アニミズムという自然宗教が最底辺に置かれたのは何故でしょう?
  •  自然宗教が人間的精神を全く含まないからです。なんでそれが低級かっていうと、そもそも低級とか高級とかを決める尺度が「人間とどれぐらいかかわりがあるか」だからです。もっともっと高級なのは、未来の目標を与えるようなものでしょう。理想の人間像、理想の人間社会……トップに君臨することになるのは、キリスト教文化圏では当然、キリスト教です。
  •  ヘーゲルキリスト教にいくつかの不純な要素を見ていたのかもしれません。彼はさらにピラミッドを一段積み上げ「絶対宗教」という名前を与えました。でも注意しなければならないのは、絶対宗教というのは不純物を取り除いたキリスト教であって、別のものではない点です。この序列構造はだいたい各地共通のものです。
  •  というわけで色々ありましたが、要するにアニミズムは最底辺です。つまりアニミズムと見なされている日本人の宗教は最底辺です。自然性というものを彼らは低級のものと見るからです。そういう風に見るのは仕方ないにしても最底辺とまで言われる筋合いはありません。せめて横に並ばせてはもらえないもんでしょうか。

  さて、自然vs人間といったような構図になってきてしまいました。ここでキリスト教が「人間中心主義」であることを確認しておきましょう。この点は少々わかりづらい。というのも、キリスト教には絶対者がいるからです。絶対者は、それのみが唯一絶対です。じゃあ人間なんて除外されたものなのでは、と思ってしまいます。が、まったくそんなことはありません。

  •  「神は人間を創造した際、それを自分の似姿に創造した。」「すなわち、この世界で、神のあり方を分け与えられて存在しているのは、人間の存在唯一つのみだということです。」
  •  聖書の記述を実証的な側面から考えれば、事情はまったく逆でしょう。つまりこうです。「もしも、猿が神を作ったとすれば、その神は猿の姿形をしていることだろう」
  •  聖書の書き出しには「始めにロゴスがあった」と書いてあります。ロゴスとは人間の言葉のことです。神は人間にしか関わりません。鈴虫の発する音色はロゴスではありません。

 人間中心主義の宗教は「自由」「平等」「博愛」などのさまざまな価値を生み出してきました。人類ははじめからこんな思想をもっていたくわけではありませんし、理想としていたわけではありません。強い者、豊かな者が繁栄を享受するのはあたりまえのことでした。

 そこへイエスがやってきます。彼は貧者や弱者に対して「貧しい者は幸いである」といいました。なぜかというと、心が清らかで神から愛してもらえるからです。この考え方は当時、衝撃的だったはずです。反旗を翻すものです。強者がなんだ、弱者がいじめられていたらみんなで団結してぶっ倒してしまえ、神が認めてくれてるんだぞというわけです。これまで体の弱いものは当然死んでいくものとされ打ち捨てられていましたが、弱者にも救済される権利があると訴えたのはイエスでした。これが今日の基本的事件、つまり生まれながらにしてみんながもっている権利の思想の根本となりました。

 キリスト教が作り上げた価値は徹頭徹尾、人間のためのものです。そしてその宗教における絶対者は必ず、どれだけ超越的存在だとしても、あらゆる点で、「完成された人間」の特徴を所持しています。

第九章 俗信、もう一つ別の種類の「人間中心的宗教」

 さて、自然崇拝をみてみましょう。自然存在と人格的な神のイメージというものはなかなか重なり合いません。たとえば富士山にはコノハナサクヤヒメという神様が充てられたことがありますが、こうした作業は政治的文化的に日本を統一しようとした政策の結果であり、富士山は富士山であって人間存在と共通の原理をもったものではないのです。

  • そもそも神道の神社には人間の似姿をした像はありません。非人格的な自然の崇拝という、まことに特異な宗教形態といえるでしょう。ただし、「非人格的な存在に対する崇拝」は世界的にはもちろん日本の他にも例があります。
  • 仏教は人格的なもの(ブッダなど)と非人格的なもの(法)の二面性を持ち合わせています。釈迦は亡くなるときに「これからは私のいうことじゃなく、法を理解し極めて行けばいいから心配しなくていい」といいました。

 でも、日本人にもたくさんの神様がいたはずです。これは非人格的な存在を崇拝するというさっきのポイントと矛盾しているように思われます。

 私たちはなんだかよくわからないながらも、ガランガランと鈴を鳴らして、賽銭箱に金を投げ入れて、なんとかかんとか祈ります。ご祭神なんか知りません。というか神社にいってそこで何がまつられているか知っている奴は感心されます。祈りの内容は家内安全、商売繁盛などの極めて現実的なことがほとんどです。そこで「現世利益的宗教」とも呼ばれたりします。

 祈る以上は叶えてくれそうないい感じの存在を想定しているわけですが、それをよく知らないにしても、なんかいればいいじゃんみたいなものだとしても、少なくとも富士山ではないでしょう。富士山などの山々は、家内を安全にしてくれるどころか何もしてくれやしません。だからこそ、なおさら「自然崇拝」と「現世利益的宗教」というのはちょっとちぐはぐな感じがしてきます。

  •  神道という言葉を聞くとすぐに「神道の歴史とは天皇の歴史で~」と言い出す人がいます。が、神道の神様が天皇だけというのは誰も納得しません。神様はそれこそおびただしいほどいるわけで、『古事記』『日本書記』といったものに登場する神様の他にも、天皇家以外の豪族もいます。たとえば奈良にある春日神社は藤原氏の神社です。地域集団、その土地の神様に向かってそれぞれ祈りを捧げいました。こういう意味では、民衆にとってその神様の起こりがなんであろうが、祈って家内安全になりゃあそれでいいのです。神社は由来というよりも「地域」的なことです。その地域の人はその神社に行くわけです。
  •  キリスト教的にみると、日本は多神教に分類されがちです。でも祈っている当人たちも、誰に祈ってるんだかほとんど誰もわかっていません。熱心な人はともかく、ふつうの感覚からすると初詣に行く近所の神社で「誰を祀っていて・どういう経緯でそんなことになって・どんな人だったのか」なんてどうでもいいのです。正体なんか別に気にしていません。毘沙門天神道だと思ってお参りする国、それが日本です。
  •  唯一はっきりしているのは、やはり家内安全、商売繁盛、平穏無事、大学合格……祈りの内容だけです。そういう方向でいうと、神社はお祈り施設です。
  •  はっきりしてるのは祈りの内容と書きました。でも実はこれも危うい。ふつう、神社のお祈りには切羽詰まったものはまったく感じられません。家内安全と祈る人の家内はたいてい安全です。商売繁盛を願う人の中で、””悪くすると明日にも倒産して一家心中””と言う人はなかなかいません。さらにいうと、「切羽詰まったひとの神社頼み」というのはなかなか起きません。日本ではたいてい、切羽詰まった悩みは裏道に頼るのです。
  •  裏道例:「占い」。裏道例2:「いちこ、いたこ」(霊能者)、裏道例3:「陰陽師」 いろいろ裏道には名前がありますが、「あの人は占い師であの人はいたこであの人は陰陽師で」などと区別されていたわけではありません。

 こうした裏道の持つ力というものは、いわゆる””超自然的な””といわれるような、「自然」「宇宙の法」といったような非人格的なものに拠っています。そのように見れば、現世利益的宗教といえども非人格性の特徴が強いといえるでしょう。

 

ここでおわり

 著者本人が書いているように、『できるだけ視野を広げて見』たおかげで『一つ一つの問題に関する突っ込み方が、浅くなってしまったうらみがあります。』。そしてまた、結局、『宗教の定義に関しても、終いに、はっきりとしたものを提示することはできませんでした。』。この自己評価はかんぜんに正しいものです。

 しかし日本人の自然崇拝について広い視点で見ることができるため、次の本に向かうための大きなモチベーションになります。

 

日本人の自然観

日本人の自然観

 

 

*1:とはいえ、実際のダーウィン進化論は「完成」に向かって進んでいるわけではない。現在の生物は完成しているわけではなく、適応しているだけである