にんじんブログ

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にんじんと読む「生まれてきたことが苦しいあなたに(大谷崇)」🥕 ③

「生まれたこと」から考える

 生まれてきてしまった。こういうとネガティブな感じがして性に合わなければ、ともかく生まれた。生まれている。このことは間違いない。そして私たちは自殺しようと思わない。いくら厭世的であろうが、生きたいと思っている。

 大事なことは、「(別に死んでもいいのに)生きたいと思っている」ということである。私たちは誰一人世界にとって特別ではなく、生きるのになんの目的も用意されてはいない。「なぜ生きなければならないのか、それはあなたが死なないからです」そして逆に、それこそが生きることのたったひとつの理由になっている。もしも外的に生きる目的などというものが与えられていたら、存在意義が与えられていたら、私たちはこう言われることになるだろう。「あなたは生きる目的をまだ10%しか達成していませんね……ダメ人間です。もう死んでください……」生きるのに目的がないからこそ、私たちは好きに生きることができる。

 

『生にはなんの意味もないという事実は生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる』告白と呪詛

 

 しかし生きていく以上、私たちには「苦しみ」が襲い掛かる。

 人生はむなしい。何をしても最後には死ぬからだ。病気に苦しみ、社会に苦しみ、そうして、そのような世界を変えることは決してできない。病気にかかったことがない人もいるかもしれない。でも嫌なことはたくさんあると思う。どうも人間は、他の動物と比べて、傷つきやすいように見える。

シオランは苦しみとは「距離の産出者」であると言っている。(『時間への失墜』114頁)。病気にかかっていないとき、苦しみが存在しないとき、私たちは周りの事物や世界にもなんの障害も感じず、事物や世界との連続性のなかに生きている。苦しみがこの連続性に亀裂を入れる。シオランが苦しみは私たちの存在の「原因」であるというのはこの意味においてだ。ひとたび亀裂が入れば、私たちは「意識」を持つようになる。「精神と世界の乖離」がそこで起こる。

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  人間特有の苦悩は強い「意識」によって始まる。この意識のために、対象と一歩距離を取ることによって、私たちはいろいろなものを作り出してきた。私たちに確実なものとして迫るのはいつも苦しみのほうである。成功・勝利・達成はいつもどこか嘘くさい。成功者よりも敗北者のほうが複雑な人格を持ち、成功者は薄っぺらい。だからこそ、成功者は快活なのであるが。

 社会は私たちが生きる舞台となる。社会は自らの再生産のために私たちに何らかの役割を求める。行動せよと迫る。これを拒否しようとするのが「怠惰」であったが、はっきり言って怠惰のままでは生きてはいけない。結局、私たちは欲求しそれを達成しようと企図する。しかし、ここにも困難がある。

 

『本当に生きるということは、他者を拒絶することなのです。』歴史とユートピア)。

 

 この社会には多様な人間が住まっている。だから対立が生じる。対立の調整として社会はルールを作る。その枠内で競争させ、時には私たちを勝者に、時には私たちを敗者し、延々とそれを繰り返させる。この錯乱した世界で必要なのは悪徳だ。私たちは自らの意志の正しさを「確信し」、敵対感情を培養する。憎悪は私たちを強くする。自分の意志をはっきりと示さない中立的な態度などというものは私たちを弱くするだけだ。衰弱した人間は自らの正当性を押し付けてくる連中に潰される。

 人間の集まりである国家もそうだ。みんな同じ、人それぞれ、などと言っている国より、これが正しいんだこれをやれと言う核を持っているほうが強い。自由にさせると、人間は自分自身と向き合う以外やることがなくなる。だがそれなりにやれているので、誰も本当には向き合わない。仕事が嫌だといいながら無職にならないように。何かを信じることをためらうことは、希望さえ遠ざける。ユートピアが消えることは、進むべき方向を見失うことだ。

 望まれるアポカリプス。絶望的でむなしさを感じている彼らの最後の手段は「終末」である。「隕石でも落ちて来てめちゃくちゃになってくれねえかな~」というにんじんのタイムラインでよく聞く嘆きはその種のものだろう。人は自由に疲れ、誰かに命令されたくなる。Amazonでおすすめを表示されるほうが楽になる。思う存分検討などしたくない。鬱陶しいからだ。無気力になった人間たちはそのような態度で自由を謳歌するようになる。

 

 

自由な社会とは、必ず一定量の他者に対する無関心を必要とする。

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 これがいいよ、と強要し支配しようとしてくるやつがたくさんの社会に自由はない。自由な社会における政治は自らの党の考え方を強制しようとはしない。別の考え方がいてもけっこうですと言う。政治は信念を失い腐敗しているが、そうでなければ声をあげる自由もない。

 

 

 衰弱すれば寛容になれるが成功はしない。成功したければ悪徳を発揮しろ。

 

 人生はむなしい。

 

  釈迦が追い求めた「悟り」は、自我を捨てること、すなわち何かを欲求することを捨て、何かを欲求しないように欲求することをも捨てる。だがシオランはこの解脱が、人間にはほぼ不可能だと言う。人は苦痛を求めてしまう。苦痛を憎んでいたはずなのに、憎んでいる自分に執着する。「私はこんなにも厭世家です」と言ってしまうのである。

 

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