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にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第一章①

 今回はこの本です。

 

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  • 作者:斎藤 慶典
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 単行本
 

 

 

 何ものかに対して何ものかが何ものかとして現れること、即ち現象。

 これを「現実」を考える上での出発点に選んだこの本ですが、まず出発点が明確に据えられている点がとても刺激的です。というのも、すべての哲学理論にとって一番肝心な問題は、どこからはじめるか、であるからです。といっても、現象からはじめるということ自体はフッサール現象学そのままですが、たとえ『デカルト省察』を読むにしろ、哲学者の書く本にありがちな回りくどさと難解さのせいで、彼の出発点はわかりづらくなってしまっています。

 現われを受ける何ものかはふつう「自己」と呼ばれるものですが、これが極めて不安定な存在であることがよくわかります。というのも、自己という存在者もまた現象に過ぎないからです。しかし自己という存在者が現象するとき、そこにもやはり自己が背後に隠れている。そっちを見てみると、また背後に回ってしまう。そんな奇妙なものです。自己はふつうの意味で「何か」とは言えないものなのです。

 自己はまた、「こころ」とも呼ばれます。これが「もの」とどのようなかかわりを持つか、という伝統的な問題に対してこの本では『基つけ関係』というメルロ=ポンティによって定式化された術語を当てはめます。これは一方的なものではなく、双方向の関係です。たとえば植物というものはしかじかの物質によって成り立っている。けれどもその物質を全部かき集めても植物にはならない。そこにはたとえば二酸化炭素を酸素に変換するという、ふつう物質をかき集めただけでは説明のつかない物質的過程が生じています。植物は物質に基つけられていますが、さりとて、物質だけで説明し尽くされるものではないのです。これが、ココロとモノに対してもいうことができます。

 

第一章 脳と心

 私たちが直接的になにかを捉えることを直観といいます。カントが直観することを認めたのは感性、つまり五感でした。しかしフッサールは範疇的直観という概念を打ち立て、直観が感性的直観に限られないと主張しました。

 たとえば目の前で青々と茂っている芝生があるとします。カントによれば「芝生」「緑色」というものが感性によって把握されそれが繋ぎ合わされるのですが、フッサールによれば「芝生が緑色である」という事態をも、私たちは直接に捉えているはずだというのです。事態とは命題の形であらわすことができます。範疇的直観は感性的直観に支えられてはいますが、それよりも高次の秩序を形作っているのです。これが〈基づけ関係〉というものにつながりました。

〈基づけるもの〉としてはたらく項は、〈基づけられるもの〉が〈基づけるもの〉の一規定ないし一顕在態として現れるという意味では確かに最初のものであり、このことは〈基づけられるもの〉による〈基づけるもの〉の吸収を不可能にしている所以であるが、しかし〈基づけるもの〉は経験的な意味で最初のものだというわけではなく、〈基づけられるもの〉を通してこそ〈基づけるもの〉が姿を現わす以上、〈基づけられるもの〉は〈基づけるもの〉の単なる派生態であるわけではないのである。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  こころはものによって基づけられます。こころというものはたとえば脳という物的なものによって基づけられてはじめて存立することができます。しかしこころは脳以上の次元にあります。

 

リベットの実験

 

 皮膚をつまんだときの物理的刺激は脳に達するまでには最低でも0.5秒かかります。逆に言えば、0.5秒までは私たちはつままれたことに気づかないのです。つまり、私たちはいつも0.5秒ほど常に遅れて現実を受け取っているわけです。しかし、私たちはふだんそのような遅れを感じることなく、ふつうに生活しています。そこでリベットは皮膚刺戟を感じたときの「気づき」を被験者に報告させました。すると驚くことに、被験者は皮膚刺戟を0.5秒前に起こったものと感じていることがわかりました。意識の遅れを主観的に補正しているのです。

 私たちは意識してどうにかするのではなく、無意識で何かをやってしまうことがあります。先ほどまでの話はあくまで「意識する」「気づく」までの時間です。だからこんなことも起こります。

  •  車を運転していると子どもが飛び出してきた! ありがたいことに無意識が0.15秒でブレーキを踏みました。車は止まります。0.5秒後に気づきます。ブレーキを踏んだ時点では子どものことなんて気づいてはいないのに、「子どもが出てきたからブレーキを踏んだ」と報告できます。本当の順序はブレーキを踏み、子どもが出てきたことに気づいたのですが。

 そしてなんと、私たちが「よし、こうしよう」と決める場合にもこれが言えます。つまり、私たちが自分の意図を意識するのもちょっと遅れているのです。つまり、自発的過程は無意識のうちに起動している……。

 

 

 この実験結果を受けてリベットは結論します。:『自由意志がもしあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているわけではない』

 

 

 意識の役割といえば、無意識に起動した意図をブロックすることだ。そうリベットはいいます。しかしそれではどうも話がおかしいようです。なぜなら、拒否することを意図するためにも、時間がかかるのですから。とはいえ、リベットは拒否することについては時間差を認めません。その理由は簡単です。もしそうでないなら、人は自分の行動を制御できないということになってしまうから!

 そうとはいえ、拒否に時間差がない説明は必要です。そこでリベットが考えたのは「創発」でした。たとえば炭素原子や水素原子それら自体からC6H6のベンゼンの特性を導くことができないように、組み合わさることによって新たな次元が創り出されたと考えるのです。ここでいう「気づき」つまり、意識というものがまさにそれでした。このことを示すため、リベットは分離脳に着目します。分離脳とは右脳と左脳を完全に断ち切ってしまうことです。もしも右脳と左脳を断ち切ってしまったのに、二つの意識が成立せず、なおもひとつしか意識がないのならば創発した新たな次元を立証することができると考えたのです―――しかし、これは恐ろしく困難な実験であり、彼も提案しただけで議論を終えています。

 

 

 ですが、なぜリベットは「起動」に関しては自由を認めず、「停止」に関しては自由を認めたのでしょう。これは実に奇妙な議論です。そもそも、まず起動について考えましょう。行為意図に気づく前には無意識的過程が存在しています。そしておそらく、無意識的過程には脳内でなんらかの物的反応が対応しているでしょう。しかしその無意識的過程は、物理的なことを原因とするでしょうか?

 たとえば歩いているとする。進行方向にポールが現れる。私たちは右か左かに避ける。なぜかというと、そこにポールがあるからです。そのとき脳内ではなんらかの過程が生じているはずですが、それが生じれば、因果的に右に逸れることを必ず意図するわけではないはずです。ポールといっても無限にちかいほどの現れ方があります。私たちは脳に映し出される灰色のそれではなく、まさに「ポール」という言葉の意味に反応しているといえないでしょうか。これは物理的因果関係とは区別しなければなりません。

 意味に反応するとき、私たちはそれに気づいている必要はどこにもありません。そのことが逆に、私たちがその「意味」に気づき、ある行為の由来が自分以外にほかならないことを認めた時そこに「自由」が生じてきます。「自発性」はポールを避けるようにしてきますが、あなたの「自由」がそのままぶつかることを受け入れる選択肢を用意するのです。

リベットの議論で評価すべきは、何ごとかが意識に明示的に気づかれたときにはじめて、自由の成立する余地が生まれるとした点にある。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

 

 

存在と時間 全4冊セット (岩波文庫)

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