にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第三章

第三章 間主観性と他者

 超越論的領野とは、すべてがそこにおいて姿を現わす場所である。なにかが存在するためには現出が必要であるがその場こそが超越論的領野であり、ここが最終的な地点である。これは個人の心というレベルの話ではない。

 しかしフッサールはこれを「超越論的主観性」と呼んだ。それは、何ものかが何ものかとして姿を現わすことの直接性・端的性を示すためだった。とはいえ、ミスリーディングではある。私が何かを見ているから姿を現わすのではなく、端的に姿を現わしているからこそ私が何らかの仕方でそこに居合わせることができるのである。現われの端的性に特定の人物としての私が重ね合わされる。この重ね合わせがあまりにも瞬時になされるため、同じものとして受け取られてしまう。私たちは重ねることに慣れ過ぎているのである。

 超越論的領野における現出は、間主観的な仕方で構造化されている

 まず、何ものかが姿を現わす。たとえば机だ。しかしその机のすべての側面が現象しているわけではない。少し視点を変えるだけでまったく違う机の姿が現れるだろう。机のさまざまな側面はそれと相関する特定の観点と結びついており、その特定の観点の内に位置付けられる。そこにあるのが私だ。私の身体だ。だがそれが私のものであるためには、他のこころと区別できているのでなければならない。もちろんできているだろう。別の観点に立ちうることのその可能性を理解することは、今まさにこの観点にいる特別な身体と結びついている。もちろん他人のもとでどのように現象しているか、私自身が確かめるすべはまったくない。これは原理的に無理である。大事なことは今現象している机の側面とは別の側面における机が、まさに同じ机であるということだけなのである。

世界の内に存在する知覚対象(たとえば、本書をその上に載せているこの机)は、直接性において現象する諸側面と、そのような直接性においては現象していない他の諸側面の双方を通じて、それらの諸側面をおのれの諸側面としてもつ同一の対象として姿を現わすのであり、直接性において現象しない諸側面の内には、他人の下での現象という定義上決して直接性において現象しないそれらがあらかじめ織り込まれているのである。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  いわば他の観点に居合わせるであろう「もう一人の私」が他人なのである。中心にいるのが身体なのであるが、もちろん、身体とはこころではない。こころは身体のどこにあるのだろう。どこまでが私なのだろう。昔から言われているように、髪の毛や爪、皮膚どころか、細胞は毎日のように入れ替わっている。

 事情は逆だったことを思い出そう。こころがあり、そしてものがある。私たちはこころというものを身体というものに帰属させているのである。だから手がないのに痛みを感じたり、あるいはラバーハンドを自分の手だと錯覚するような実験が成り立つ。何らかの事情や条件のもとで「私」の領域は変化する。この重ね合わせに極端に失敗したのが種々の精神疾患である。

 

心という難問 空間・身体・意味

心という難問 空間・身体・意味

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2016/05/27
  • メディア: 単行本