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にんじんと読む「哲学がはじまるとき(斎藤慶典)」🥕

 

第一部 思考

思考とは反復であり、反復の中核をなすのは偏差(ずれ)である。

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

  反復とはだんだん付け加わっていくということで、偏差というのはいわば「世界のずれ」のことである。これは「当惑」(えっ?)としてあらわれる。これが直接、「問い」(どうして?)に繋がるのだ。この問いとは、さしあたり不満足ななにかであるといえると思う。

 問いにはいろいろの形がある。不満足を解消するものはまず「根拠」と呼ばれるものだろう。けれど、それほど確かなものではない。ただ不満が解消されればいいのだから。そもそも根拠なんていうものは、そのレベルを出るものではない。たとえば毎日川に出かけていていつも見かけた動物がいなかったらあなたは当惑する。なぜだろうと思う。ふと見ると上流のほうにいた。移動したのだ。これで満足が解消されればそれでいい。しかしもし、その動物で生計をたてているなら、もっと決定的な根拠を求めなければならない。問い直さなければならない。

  •  また私たちは何かと相対したとき、その処置をある程度心得ている。あれはなんだという問いは、たとえばクマであるなどといった答えを求めているのである。これは「本質」といえる。よくわからないものに対する処し方もあるが、目の前にいるものがタヌキかクマかで命を左右する場合は不満足を解消するのはなにより大切だろう(害意があるもの、ないものという区別等々)。また「構造」についても、不満足を解消するものとなろう。どういうふうにこういうことになったのか。どういう作りになっているのか。そのようなことである。

 そのものの本質がそのものをそのものとする根拠であり、そのものの構造がその本質のあり方だというならば、私たちにとって最も大事なのは根拠の問い(理由・原因・目的)であることになる。私たちはどうしてもその不満足を解消したいと願い、できるならすべての問いに答えがあればと願うのだが、現実はそんなことを少しも保証してはいない。

 問いによって何ものかがそのようなものであることがわかる。この理解したところを私たちは「意味」と呼んでいる。学校に行く意味はなにか―――勉強のため、社会性を身に着けるため、友達のため。挙げられる根拠はすべて””それなり””のものであることがわかる。日々の営みにはこのような意味がたくさんくっついている。だからこう思うのだ。「じゃあ、生きることそれ自体には意味があるんだろうか?」

 なんにでも意味があると思い込む哲学の病気を指摘したのはニーチェだった。人間は無意味というものに耐えられない。だから神などというものにすがり、自分の存在を支えてもらおうとする。ニーチェのいう超人とは、この無意味性に耐えられる人間のことを言うのである。

 

 では、思考とは単なる彼岸にわたるためのはしごに過ぎず、捨て去らなければならないのだろうか。だが一切の意味を捨て去った時、そこに残るものとはいったいなんなのだろう。もう一度考え直さなければならない。

 

 何ものかが何ものかとして現れることそれ自体を「表現」と呼んでみよう。私たちはまず五感などの感覚によって表現を得、世界というものに触れている。そして問いとしての思考は、この表現に新たな次元をひらき、表現を表現する。つまり世界というものをあらためて、新しい形で、表現へともたらすのである。思考には数学のように形式的なものや、神話のように意味を語りだしたり語り直すものもある。小説や詩も精密さや厳密さとは異なった仕方で表現を反復する一つの仕方である。

 神話や神を信ずるのはそれが信ずるに足る根拠を持つからではない。それを信ずることによって、すべてが理解可能となるのである。注意しなければならないのは、「理解可能になるから信ずる」のではなく、「信ずるから理解可能になる」ということだ。絶対根拠としての神はそれ以上遡るものをもたない。

 ニーチェは人間が無意味に耐え切れずに神に逃げたというようなことを言ったが、一面においては正しい。しかしそこで思考を放棄するのではなく、どの地点まで行けば問いというものが無意味になるのか、その限界まで思考してみなければならないのではないだろうか。それを怠ったからこそ、中途半端な絶対者を人々に許させたのではないか。

 科学は確かさを求め、問いの対象について細かい部分を無視したり何かが正しいことを認めたりしながら、それの上に体系をくみ上げてきた。重力というものがあると確信し、それがいかに働くかを記述したのがニュートンの取り組みである。あるいは””かたち””について知るために、雲だとか曖昧なものは除外し、明確な決めごとを考えたユークリッド幾何学がある。しかしもちろん、その前提はやがて問われ、堀り進められることになっていく。哲学は多様な問い方を一旦保留し、ある程度の限定を与えることで科学というものにものの考察を分けてきた。いま哲学の名で思考されているものは、科学のように問いの対象をうまく限定できないもの、これまでうまく答えることができなかった問題だ。

 

 

 

 

第二部 世界(途中まで)

 途中から何を言ってるのかよくわからなくなったため、止まってます。

 

 

 形而上学とは、世界、つまり「すべて」をあるがままに理解しようという企てである。哲学はそのはじまりから『世界の根源(アルケー)とは何か』と問うた。これはつまり、『世界は、なにからできているのか?』ということだ。哲学者たちはいろいろ考えてきたが、そこで「モノ」を考えてしまうと、じゃあそのモノは何からできているんだという話になる。今では恐ろしく小さい素粒子にまで分解されてきたが、つまりアルケーとは測定技術と相対的に定まることになってしまう。この遡行がどこかで停止するとすれば、それはもはや「モノ」として答えられるものではない。

 アナクシマンドロスはそれを「無限定なもの」(ト・アペイロン)と答えた。

 彼はそれを「もの」と呼んでいるが、もはや物質ではない。それは『万物を、それぞれの規定性・限定性のもとで存在するにいたらしめるある動向、すべてを何らかの「もの」として存在せしめんとするある趨勢のごときもの』である。だからある種、「力」のようなものだろう。存在者を存在せしめんとする動向なのだから、これを「存在」と呼んでもよかろう。かくして世界の根源への問いは「存在」へと到達する。アナクシマンドロスは無限定なものを存在とは名づけなかったし、これ以降思考することはなかった。なぜならそれが万物の根源ならば、それについてもうなにごとかを語ることはできないはずだからだ。

 歩を進めるは、エレアのパルメニデスである。彼はアナクシマンドロスとは別の道筋で、根源に「モノ」を持ってきても無駄だということを理解していた。「存在」は五感や感情によって捉えられるものではなく、ただ私たちの思考に理解されるのみである。彼は言った。「あるはあり、ないはない」これが世界のすべてに妥当する形而上学存在論の先駆である。

  •  存在は不生不滅である。
  •  存在は分割不可能である。
  •  存在は不動である。

 このように言えるだろう。あるはないには変わらないし、あるでないものはないである。動くためには存在のなかに存在以外がなければならない。

 

 存在の根本命題「あるはあり、ないはない」からは私たちのよく知るモノはどこにも見当たらない。ひとつの花瓶を見るということは、花瓶以外のものを取り去ることでもある。花瓶は花瓶として、そして植物でも空気でも土でも時間でもないものとしてそこにある。つまり「ある」の中に「ない」が介入しており、それは虚妄なのである。

 だが、私たちは毎日何かを見る。それが虚妄だとしても、その事実は世界が「存在」だけから成り立っているわけではないことを示唆してはいないだろうか。存在の論理からすればありえないような途方もないことが起きているのではないか。それに気が付いたのはヘラクレイトスだった。

 

 何かが生じるためには「あるはない、ないはある」というような状況が必要だった。パルメニデスが何かを拒否したのは、「ない」ということは徹底して「ない」はずだからである。具体的に何かがあるということは、否定が混入しているということだ―――ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言った。つまり、時間という事態の内に生成消滅を見て取った。生成とはつまり「かつてなかったものがいまある」ことで、消滅とはつまり「いまあるものがいずれなくなる」ことだ。過去や未来という仕方で「ない」が混入する。