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にんじんと読む「恋愛なんかやめておけ(松田道雄)」🥕

恋愛ってなんだ

 著者はまず「恋愛」と、それと繋がりがある「性」に対する人々の反応のちがいを指摘する。恋愛はきれいなものだが、性はきたないものだ。つまり誰も話したがらない。

いったい「性」ってなんだろう。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  この答えはすぐに出される。すなわち『性は、人生のなかで男と女とのちがいから起こってくるすべて』である。だから恋愛も結婚も性の話だ、という。

 もちろん、この主張はそれほどあきらかなことではない。今でははっきりと公にLBGTの存在は正常なものとして認められているし、パートナーシップ条例等、結婚が異性間の婚姻だったのは過去のものとなりつつある。どの人間にも性というものがある以上、恋愛と結婚を特別に性のものだと包含する必然性はない。少なくとも、恋愛や結婚から性を特徴的なものとして抽出することはできないだろう。

 だからむしろここでいう「性」とはその時代における「オスらしさ/メスらしさ」を指摘したものであり、この主張を時代的文化的な特殊背景を反映したジェンダーを原因として生じてくる現象が恋愛や結婚だ、としてこれを捉えるのが妥当なところだろうと考えられる。

 そこで考察は、いわゆる「ふつう」の状況である異性に対する意識に向かう。そこで取り扱われるのはとりわけこの意識が強い作家という職業者である。

 

『大型の被布の模様の赤き花今も目に見ゆ六歳(むつ)の日の恋』石川啄木

 

 異性に対する意識というものは年齢を問わなかった。つまり「恋愛現象は年齢に依存しない」ということが指摘される。著者は啄木の例を、異性を異性として意識することができなければこうした現象は起こらない、の傍証とする。

 さて、こうして起きてくる恋愛というのにも、実は価値階層がある。恋愛というのは『人間の生き方、人生』であるという。何が言いたいかというと、その人がどれぐらい真剣に生きているかに応じて上等と下等の恋愛がわかれる、ということだ。つまり「個性」というものが恋愛には影響してくるといっている。

 この主張は新しい観点である。つまり恋愛の発動に必要なものは「オスらしさ/メスらしさ」に対する意識=異性を異性として見る意識であるが、恋愛というものは「その人らしさ」が大いに影響すると書いている。

だけど、週刊誌にわんさとのっている恋愛小説と称するものは、どれをみても一様だ。人間はみんなエッチで、だれもかれもがそこに書いてあるような「恋愛」をしたがってるみたいだ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  恋愛はセックスだけだといってる人間が一番下等である。そこには「その人らしさ」「その人間らしさ」がすっかり取り除かれているからだ。いま、ひとつの次元として個性の「浮気←→本気」がある。恋愛といえばセックスだと思っている人間が恋愛の最下層に位置付けられたわけだが、上等だとされる恋愛というものがどんなものだかはっきりしない。はっきりしないので作家は恋愛について書き、市民は恋愛物語を読む。

 しかし話はまだ最下層に留まる。ここにはまだ語るべきことがあるからだ。

 ここでひとつ注意しておかなければならないのは、「恋愛=セックス論者」であっても、この理論はそれを恋愛であるとは認めている点だ。ただ下等なだけだ。この利点はこういった「それは恋じゃない!」と批判されそうなものを含むことによって、理論内部でそれを取り扱うことができることである。例外、異常な例として処理しないで済む。恋愛というのは異性を異性として見ることで、ともかく『相手に近づきたい』と思うことだ。

 

 

 本気で恋愛をするということは、とてつもない危険に足を踏み入れるのと同じことだ。それは相手がどう思っているかわからないということでもあるし、『恋愛にはおまけがつく』からでもあるという。この恋愛のおまけを無視した恋愛なんていうものは浮気の恋愛だといい、踏み込めば踏み込むほど、つまり本気に傾けば傾くほど、上等になればなるほど危なっかしくなる。

 実は「恋愛=セックス」だけが浮気恋愛というわけではない。別の例としては『恋愛のおまけ』を完全に忘れ去っている「恋愛至上主義者」がいる。つまりこういうふうに考えることができるかもしれない。恋愛というものをいま二次元的に表示すると扇形になっていて、一番カドのところに「恋愛=セックス論者」と「恋愛至上主義者」がいる。ここで扇形のカドを原点にして、『人間らしさ』の縦軸にむかってひろげてみよう。理論的に、上の二つはまったく異なる二つの種だ。「恋愛=セックス論者」は縦軸も横軸もなく、一次元的なものの見方しかできない。しかし「恋愛至上主義者」は縦軸を認めるものの、横軸である『恋愛のおまけ』が認められない。だから扇形ではなく、一本の細い棒になってしまう。

 

 それでは恋愛のおまけとはなにか。

 恋愛というのは相手があって成り立つ。そして上等な恋愛というものは『自分が自由に相手をえらんだという気持ち』が大事になってくるのは、これまでの議論から明らかである。たとえば脅迫して一緒にいるような恋愛はその「自由」がない。逆にいえば、少しでも上等な恋愛を欲するなら、相手の「自由」を受け入れなければならなくなる。相手を相手として受け入れなければならなくなる。

 しかしこの自由は、相手に受け入れてもらったら必ず成功するわけでもない。『恋愛をする自由』は適切に行使しあっていても、「自由」はほかにもたくさんある。つまり、二つの個体がいっしょにいるというのはむずかしいことで、努力してそれを築き上げ、築き上げ続けなければならないものだ。社会情勢ということでもあるし、その他自然現象とか、生計とか、いっしょにいられない理由がたくさんある。

好きだというだけじゃだめなんだ。ほんとに好きだったら、好きになることをじゃまするものをたたかわなければならぬ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  ここに、本気と浮気の区別も出てくる。浮気な人間は絶対に戦おうなんて思わないし、戦うぐらいなら恋愛を捨ててしまう。

 

 

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

しごとと人生 1 (ちくま少年図書館 33)

 

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  • 作者:松田 道雄
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 ここまでの内容をまとめておこう。

 恋愛というものは年齢に関係なくジェンダー=「オスらしさ/メスらしさ」によって起動し、それぞれの個性というものによってその価値に順序が生じる。個性とはつまり、その人の生き方や人生でありどのぐらい本気か、どのぐらい真剣かということだ。

 最下層に位置付けられるのは、その人らしさを認めない「恋愛=セックス論者」が典型的であるが、一方で『恋愛のおまけ』を認められない「恋愛至上主義者」もある。恋愛のおまけとは、双方の自由によってお互い接近し接近し続けることを阻害するものとの戦いである。

  とはいえ、恋愛へのコミットメントの深さ(いわゆる態度。本気と浮気)と、その人たちの性質としての個性=その人間らしさとは異なるカテゴリーに属する。この点をもう少し整理し直す必要があると思う。また、恋愛というものの位置づけも、接近欲求なのか、その人の生き方・人生なのかという点がいまいちはっきりしない。

 

『恋愛ってのはとても好きになっちゃうことだ』

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

 

 そして好きになるというのは『近づきたい』という気持ちだ。

 だからやはり恋愛というのは『おたがいに、できるだけ接近したい』こと、『いつもそばにいてほしい』ことになる。この始動に深く関わるのが性(ジェンダー)だ。そして『やすっぽい生き方』『本気』(その人間らしさ)に対応して、恋愛に対する態度が決定される―――「恋愛」「ジェンダー」「個性=人間らしさ(浮気vs本気)」「態度(やすっぽいvs本気)」

 二人の異なる個人がいっしょに居続けることは困難である。まず相手も自分を好きになってくれなければいけない。ふたつめ、いっしょに居続けることを邪魔する障害と戦わなければならない。ひとつめを放棄し相手の個性を認めないもの、一緒にいるための障害と戦う気がない人は上等な恋愛ができていない。相手の自由を重んじず、自らの要求を実現するための努力が中途半端である人間の生き方と相応する。

 

 

 以上踏まえて、歴史的経緯に入っていく。

 このあたりがこの本のおもしろいところなので、是非読んで欲しい。

 

恋愛だと相手が自由にえらべるという考えはすてねばならぬ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

 

 

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