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にんじんと読む「ニーチェ入門(竹田青嗣)」🥕 第一章

第一章 はじめのニーチェ

 まず論壇上の処女作と呼べる『悲劇の誕生』から。(悲劇の誕生 (岩波文庫)

 その中身は①悲劇論、②音楽芸術論、③主知主義批判の三つから成る。彼は悲劇の概念を考え直すため、ギリシャ文化をたどる。その変遷をみるために、ニーチェアポロン的とディオニュソス的というふたつの概念を持ち出す。アポロン的とは個体化・秩序化・理性的・コスモス、デュオニュソス的とは陶酔・一体化・感性的・カオスである。このふたつが互いに刺激し合うことで、ギリシャ藝術が動いていくという。

 ニーチェの語りたい悲劇はアッティカ悲劇である。それはアポロン的かつデュオニュソス的であるような芸術である。たとえばアイスキュロスの『プロメテウス』がそれだった。アイスキュロスの世界観は正義というものを求めるアポロン的な傾向をもっているが、プロメテウスは大きな苦難に打ち勝って偉大な業績をなしとげるタイプの英雄ではない。プロメテウスが神々の世界から火を略奪し支配しようとした結果、人類は苦悩と悲哀を被ることになる。彼の行為は牧歌的な人間の生活のなかに文明をもたらすのだが、それは争いの原因でもあった。だが作者であるアイスキュロスは、プロメテウスの略奪を人間の本性に由来する必然的な罪として是認し、そこから生じた災いも是認する。「そんなことをしなければよかったのに」という考えは、たとえばルソーの自然に帰れといった思想のなかに見出されるが、ニーチェはそれとは逆に、プロメテウスが手に入れた文明によってもたらされた災いを否定すべきではないという考えを打ち出しているのだ。人間の存在の本質というのは、人間の本性によっていろいろと生み出された矛盾を引き受けつつ、なおも生きようとすることなのだ。人間は欲望(生への意志)によってさまざまな苦しみを作り出すが、この欲望以外には人間の生の理由はあり得ない。仏教は欲望を消し去ることを教えたが、ニーチェはこれに真っ向から反対した形になる。悲劇はそのような人間の本質を単に認識として与えるのではなくて、直接心臓に与えてくる、とニーチェは考える。そこで出てくるのがワーグナーである。音楽はなんらかの形を介してではなく、直接に伝えてくるものだからだ。

 さて、『悲劇の誕生』において、ニーチェは「根源は生きる意志、生の本質は苦悩、悲劇(芸術)は本質に触れさせる」「音楽は形を介さずに伝える」という二点から「音楽の精神からの悲劇の誕生」について語った。ショーペンハウアーと異なるところは、彼にとって芸術は哲学や宗教と並んで生の苦しみから脱却する手段だったが、ニーチェの場合は生から脱却するのではなくて、苦悩する生自体を励ますものとして芸術がある。

 最後の三点目、主知主義への批判とはなにか。

 それはギリシャ悲劇の終わり、エウリピデスの喜劇の登場である。エウリピデスソクラテスという理知を持ち込むことで生の矛盾と苦悩を殺したのである。ここに最大の迷妄がある。正しく思考を積み重ねて行けば最後に真理に行きつけるという信念=理論的楽天主義! ソクラテスは知性と論理によって恐怖を克服し、自らの死を受け入れた存在である。ソクラテスはそれをギリシャ世界にもたらし、ギリシャ悲劇の精神を滅ぼした。

 ニーチェソクラテス批判の本当の眼目はヘーゲルにあった。ヘーゲルはカントの「世界それ自体を認識するのは無理」という説を拒否し、人間の理性の長い歴史のプロセスが徐々にそれを明らかにしていくと述べたし、カントの「善とは自由な人間が道徳的たろうと意志することだ」という説も拒否し、これだと個々人に善を意志することを期待するのと何も変わらなくなると批判した。人間は自由な存在であり、自由を求める生き物だが、自由のためには他者も認めなければならず、それこそが自由を求める唯一の道だと徐々に理解していくのだ。つまり自分の存在の本質を深く理解することによってはじめて善きことをする存在となる。要するに、深く正しい認識が善と接続されたのである―――ニーチェはこれを批判した。理論的楽天主義

 

 次は『反時代的考察』を見てみよう(ニーチェ全集〈4〉反時代的考察 (ちくま学芸文庫))。

 この中身は文献学とも哲学ともいえない、当時のドイツ文化批判である。①ドイツ文化のダメさ加減、②ヘーゲルに代表される歴史主義批判、③ショーペンハウアーの重要性、④ワーグナー論の四本立てである。

 ここで紹介される三つの人間像を見てみよう。まず「ルソーの人間」である。この類型では現実への強い否認と、本来的なものに対する激しい憧れが見られる。激烈な革命への希求が現れるのもここにおいてであり、たとえば自然こそが善だ自然に帰れと叫ぶ。次に「ゲーテの人間」である。この人間はルソー的ロマン主義を理解しているが、激情からは身を離している。現実と理想の間を調停させる力を持っているが、いつでも俗物に堕する可能性をもつ。次に出てくるのが「ショーペンハウアーの人間」である。彼は真理を深く認識し、それがどれだけ矛盾に満ちたものであろうが、あくまでこの真理に従い生の本来的意味を掴み取ろうとする人間である。

 青年は誰しも「ルソーの人間」の要素を持っている。自分の中にあるロマン主義的理想を追求したいと考える。だがそれは現実を無視したもので、実現のための条件をまったく考えないので、単なるロマン主義に終わってしまう。その反省によって現実を見るようになるが、考慮を重ねるうちに現実がこうでしかありえない理由が見えすぎるようになる。というわけで理想はしりぞけられ、調停が行われるようになる。「ゲーテの人間」に至ったわけだ。ニーチェはこの落ち着きを乗り越えたいと思っている。だが、もはやルソーの人間に戻ることはできない。

 そこで「文化」というものを考え直す。これまで人類の究極目標というものを考えて、たとえば万人のあるいは最大多数の最大幸福だなどといってきた。だがそんなものは違う。人類の目標というのは「個々の偉大な人間を生み出すこと」なのだ。そうすれば人類がより高次の種に移行する可能性がある。

 文化の本質とはなんなのか。ニーチェいわく、文化とは単に人間生活を便利にするためのものではなく、そのありかたをもっともっと高い、人間的なものへと向かわせるための励まし合いの制度である。それなのにキリスト教ナショナリズム、民主主義、近代哲学ときたら、人間の精神を高くするどころか、平均化・凡庸化する。近代哲学の道徳の本質は、互いに互いの自由を制限し合うことだ。

 キリスト教の目標は最後の審判であり、カントは永久平和、ヘーゲルは絶対精神がおのれを実現するとき……だが、これらの目標はまったく現実を捉えていない。神だとか、絶対精神とか、最高善とか、最終目標とかは人間が頭でこしらえたものに過ぎない。ありもしないものを目標としないこと。目標は「人間」「人間の生それ自身」にならねばならない。これが後期の超人という考え方に繋がっていく。

 

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

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