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にんじんと読む「統計学を哲学する(大塚淳)」🥕 第三章②

第三章 古典統計(②)

 仮説検定という検査装置はその仮説自体については何も言わない。棄却するかしないかを、設定した許容範囲で判定をしてくれるが、しかし仮説自体については正しいとも正しくないともいわないのである。こうした事情から検定理論の生みの親であるネイマンは、統計学帰納推論というより帰納行動の理論だと言った。帰納推論はデータから真偽を判定するが、そうではなく、不確実な状況下で私たちの行動をガイドするひとつの指針として統計学を見たのである。私たちは明日も明後日も水を火にかければ湯が沸くと思っている。それはひとつの習慣であり、この習慣がふだん私たちのガイドを行なっている。検定理論はさまざまな案内人の信頼性を見積もるという意味で、「案内人の案内人」の役目を果たすというのである。

 統計学帰納行動の理論とするこの見方が私たちを満足させるものであるかどうかは、私たちがそれに何を期待しているかによる。検定理論が生み出された当時は大量生産品の品質管理が主な目的であり、質の悪いものを出荷するリスクを限りなく小さくすることが肝心なことだった。しかし、たとえば新薬開発において期待されていることは、どれぐらい信頼できる薬を生み出すかではなく、薬が効くか効かないかである。しかし帰納行動の理論は、個別的な仮説の成否については何も言うことができない。帰納行動の理論としての統計学が関わるのはその検定手段の長期的信頼性なのだが、ではズバリその薬は、その製品は、に関する判断は正当化してくれないのだろうか。

 ベイズ主義は主観主義と密接なかかわりがあり、その正当化にあたっては内在主義的な見方が採用されたのだった。しかし正当化の概念に対する考え方は外在的なものもある。この対案はゲティア問題Gettier problemという反例によって生じて来たものである。このゲティア問題においては、「一見正当化されているようにみえる真なる信念」でありながら「直観的には知識とはみなされない」ような例を取り扱っている。

部屋には時計がないのでいつも窓から見える時計台を確認している。正午には席を立って食事に行くことにしており、いつも通り席を立った。そして実際その時は正午であり、食堂にはたくさんの人がいた。ところが部屋に帰ると、時計台はまだ正午である。実はメンテナンスで針が止まっていたのである! ———あなたは「今は正午だ」と知っていたのだろうか?

 内在主義的観点から見れば、明らかに「正午だ」は正当化されている。しかも実際、その時は正午だったのである。だが私たちは、彼が正午だと知っていたと満足に言えるだろうか? 知識というより、偶然の一致ではないか? つまり内在主義の正当化の考え方では「まぐれあたり」を完全には予防できていないのである。

 これをいかに修正するか。無論、正午だという信念の得られ方を問題にするのが自然だろう。止まった時計を見て正午だと思ってしまったのだから。止まった時計は信頼できる情報源ではない。ここにおいて、正当化に関する信頼性主義という見方が起きる。つまり、『ある信念が正当化されるか否かは、それがどのようなプロセスによって形成されたのかによって決まる。信念形成プロセスが信頼のおけるものかどうかが大事である。たとえば、あなたの友人がコーヒーを一日三杯以上飲むと脳卒中のリスクが下がると信じていたとする。「どこで知ったの?」と尋ねると「権威ある学術誌に掲載された大規模メタアナリシスの結果だ」と言い返して来たら「ホンマでっかTVで見た」よりよほど信用できる。つまりテレビより学術誌のほうが正しい情報を伝えてくれる割合が高い、という意味である。同様に、停止した時計が正しい時刻を伝えてくれる可能性は大変低い。

 信頼性主義は正当性を主体の外側に要請する点で外在主義的である。正しい情報を伝えてくれる割合が高いというのは主観的な信念ではなく、客観的な事実として捉えなければならないことに注意しよう。

 

 だがそうしたときに問題なのはそのプロセスが信頼できるとは具体的にどういうことなのかということである。SさんがPを信じていたとしよう。ロバート・ノージック曰く、これが知識と呼ばれるためには、Pであるという事実をしっかり「追跡track」していることである。:

  1.  Pが真じゃなかったら、SさんはPと信じなかった
  2.  Pが真だったら、SさんはPと信じた

 言い換えれば、SさんはPかどうかに応じて信念を形成しているということである。この見方はゲティア問題を回避できる。なぜなら止まっている時計台によって時間を判断していた誰かは、実際に正午でなかったとしても、正午だと信じ続けるだろうからだ。これで(1)の条件に引っ掛かり、知識とは認められなくなる。ノージックの追跡理論は信頼性主義とは別の文脈で提起されたものであるが、これら条件を信頼できるプロセスの条件として読み替えることは可能である。

 たとえば青空を見ているとしよう。私は「空が青い」ことを知っている。視覚というプロセスを通じて青いという判断を下した。もし空が暗ければ、私は青いとは思わなかっただろう。では何か音が鳴って「ドだな」と思ったとしよう。しかし実際はファだった。しかし私は相変わらずドだと信じ続けざるをえない。つまり私の音感は信頼できない。

 以上から何が言いたいかというと、検定というものは、一種の信念形成プロセスだということである。検定は二つに分かれていたことを思い出そう。主たる仮説の対立仮説が偽であるときそれをどれぐらいの確率で見抜けるかを決めて検定を行った。つまり対立仮説が真でなかったら、検定はそれを受け入れない。そして逆に真だったとしたら、検定はそれを受け入れただろう。具体的にいえば「サイズ」と「検出力」という検定理論的な概念はノージックの二つの条件を満たすかを示す指標になっている。検定理論は具体的な道具立てを与えてくれているのだ。

 しかしながら、問題はある。「Pが真じゃなかったら」というが、一体そんなものの真偽をどうやって確かめればいいのかということだ。この標準的な方法は、Pが真でないような世界を考えるという可能世界意味論possible world semanticsに訴えることだ。とはいえ、このことは正当化が現実世界だけからは決まらないことを意味する。即ち、あなたが何かを信じることの正当性は、その何かが成り立っていない世界においてあなたが何を信じているかという状況に依存する。では「私は鳥ではない」はどうなのか。自分が鳥だったときの世界などどうやってアクセスしろというのか。頻度主義においてはこの可能世界という考え方はどうしても必要になって来る(というのも、ある仮説を考える以上、その仮説が成り立たない世界も同時に考えるから)。頻度主義は可能世界のあり方を考える統計学なのだ。

 信頼性主義的な正当化は真理促進的である。つまり、信頼性主義においてはある信念が正当化されるというのはそれが外的な事実と一致するように信念を形成するプロセスによって生み出されたということだからだ。じゃあ検定の結果は鵜呑みにしていいかというとそんなことはない。検定がずさんであっては何の意味もない。ではずさんじゃないかどうかはどうやって保証するのか。それには仮説の対象に対して正しい統計モデルが立てられているという前提が必要である。単に検定の「結果」を見ているだけでは駄目で、「プロセス」にまでキッチリ目を向けないといけない。しかしこれが殊の外、大変なのである。

 たとえば「今日は空が青いなあ」と言う。視覚プロセスは信頼できる! ただし、青いフィルムが貼られていなければの話だが。検定理論においてはそうした外的条件をIID条件はもちろん、さまざまな仮定によって定式化する。だがその仮定が実際どうであるのかは完全に統計理論の範疇を超えている。信頼性を保証する条件は私たちから隠されており、成否を問い続けなければならない。頻度主義のこのあまりの「広さ」が、ベイズ主義から批判を受けるポイントでもある。たとえば停止規則問題stopping rule problemはその有名な例である。全く同じデータをもとにしながら、実験デザインの違いにより正反対の結果が出る。さらに一般性問題generality problemもある。停止規則問題が重箱の隅をつつくように思われたので、ベイズ主義者が繰り出してきた難問である。即ち、一言で「プロセス」といっても、それをどう描き出すかは人によるということだ。

 あなたがとある薬品について考えているとしよう。「この薬は味がしない!」これは単なる味覚プロセスによってしか与えられないだろうか。そんなことはない。「味覚障害を持たないヒトの味覚プロセス」といってもよいし、「味覚障害を持たないヒトが刺激物(昼食の激辛カレー)を食べた後での味覚プロセス」かもしれないし「多細胞生物が刺激受容細胞を通して異物を認識するプロセス」かもしれない。そこで問題は、どのプロセスを基準とするかだ。ふたつの検定プロセスのどっちを正しいとしますか、というのが停止規則問題だったともいえよう。これに対する応答は、まず開き直りがある。正当化概念というのは検定プロセスとセットでね、という。つまり絶対的で一意的な正当化などない。

 

 私たちは誰でも気軽に統計的正当化を行うことができるが、それが認識論的背景に即した意味での正当化になっているかが問題であり、まずその問題について自覚的にならなければならない。

 

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

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