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自分もまた世界の中のひとつの事物である、と理解するためには何が必要なのか。鏡像は視覚に限定されていたので、ここからはその限定をやめてみよう。もっとも肝心なことは「他人にも世界が現れている」ということと「他人にどう世界が現れているか」ということを理解することだった。だが、他人の世界の現われは、自分には体験できない。ただ、考えることが出来るに過ぎない。つまり、問題は、幼児はなぜそんなことを考えるようになるか、である―――これについて注目されるのは言語の習得である。鏡像段階は、言語を習得され始める時期と接しており、それを境に堰を切ったように言葉を理解はじめる。
人間が言語を用いるということは、信号の指示対象の存在・不在に反応することをはるかに超えている。「不老不死の薬」なんてものは今も昔もこれからも存在しないが、言葉はあるし、意味も理解できる。言語によって考えられるようになるのはこうした非在だけではなく、「もし~だったら」という反事実的な条件もある。
さらに一歩戻れば、音列があるものごとの名として用いられ理解されるためには、事物の同一性が前提されていなければならない。そしてそれに対する態度というのもある程度決まっているだろう。このような認知的・実践的な関わりの網の目が成り立っていなければ、ものごとの名というものが無意味になる。
そのような網の目の中に、幼児が「たぁくん」というような名前で呼ばれている、その名前が入って来る。たとえば「誰食べる?」などと言われた時に「たぁくん!」と応じれば、それが眼の前に運ばれてくることを学ぶだろう。ママやポチなどと同様に、たぁくんもまた何かを指し示す名だと理解する。しかしそれを「私」や「自分」だと思うのはまだひとつ、別の大きな問題となって来る。
これらの語が難しいのは、みんながその言葉を使うことである。「君は僕っていうなよ」とはいえない。この語を使うためには、「ここーそこーあそこ」という広がりのなかで、自分が唯一の中心でないことを理解しなければならない。その脱中心化によって、私という中心が生まれる。