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にんじんと読む「笑いの哲学(木村覚)」🥕 ③

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 さて、ベルクソンのいった笑いは「枠」を用いた笑いであった。だがよく注意しなければならないのは、

  1.  その烙印がおもしろい
  2.  その烙印をはめられることがおもしろい

 のふたつがあるということだ。いわゆるあるあるネタは、烙印を確認する作業であり、社会によって作り上げられた出来合いの枠を当てはめて、それから逸脱せずそこで笑いをとろうとする。(1)

 

 しかしマルセル・デュシャンの「泉」を見よう。これはただの男性用便器である。まさか便器が美術作品であるわけがない、というところに、便器が投入されたのである。展示空間に便器が置かれてみれば、なんだか、便器も美術作品に見えなくもない……というあたりが、この作品の「おかしさ」を作り上げている。(2)

 ジェイムズ・ビーティは、笑いを不一致の内に見出した。笑える組み合わせというのは、二つの関係性がある程度異質でなければならず、「違うのに違わない」ところがおかしいのだ。こういうのが適合的だなあというのがあるなかで、いきなりその外部のものが呼び出されてきて、まったく違うはずなのに、それと共通のものが出てくるので面白さがある。

 そういえば文学における「隠喩」がそうではないか。「愛の言葉を花束にして捧げる」と書いてある。言葉は花ではないので、これは隠喩である。花束には贈り物という意味合いもあり、たくさんのものを束ねたものである。だから伝えたい意味内容を表現するのに適切になっている。これが滑稽なものになるのは、この隠喩がある程度「強引」になるときであろう。

  •  お笑い芸人の有吉弘行がタレントのベッキーに「元気の押し売り」というあだ名をつけたことがあった。これはたとえば「守銭奴」といったような社会的に共有されている烙印とはまったく異なる。そうではなく、よりその人の固有性を言い当てようとしたものである。
  •  ものまねもそのひとつだろう。本物そっくりと唸らせる芸もあるが、似ていないし一度も本人は言ったこともないのに「似ている!」と笑ってしまうものがある。

 不一致の笑いは、観念と観念の出会いである。カントは、人が笑う時、「張りつめられた予期が無に変わる」という。つまり、私たちは普段から予期をし身構えているが、ここに不条理なものがあらわれ、どうしていいかわからなくなる。一面では不快なことでもあるはずだが、それが思考に揺さぶりをかけ、喜ばせてくれると考えたのだ。

 漫才におけるボケとツッコミは、基本的にボケがメインである。ボケの非常識な世界観に、聴いている私たちは一瞬戸惑う。そこを常識的な、私たちの側にいる、ツッコミがどういうズレがあるのかを教えてくれる。

 

 

 ところで、ダウンタウン松本人志がよく吐露することに、観客との笑いのズレがある。「そこは別に笑うところじゃない!」というものだ。彼は自分たちよりも面白くない奴らに評価される芸人という職業をキツいとも語る。それは相方の浜田にも表れていて、ダウンタウンというコンビの人気が高まったとき、自分たちが登場すればなんでも笑うようになった観客に苛立っていた。こいつらはネタに笑ってない、理解もしていない、これは人気がなかったときとなんの違いもないではないか。『笑う以上、笑う側もまたレベル気にして欲しい。感性を磨いて欲しいし、勉強もして欲しいんです』

 つまり、どれだけ観念と観念をぶつけさせようが、どんな機知を働かせようが、観客のレベルが低ければ通じない。客は少なくともダウンタウンの口にするぐらいの一般常識は持っていないといけないし、どうズレたかも想像してもらわないと困る!

 松本は浜田のツッコミを、自分の笑いを大衆が理解できるように翻訳してくれるといっている。しかし著者がいうように、その分析は少々違うかもしれない。「はあっ? お前、アタマ沸いてんとちゃうか?」というツッコミによって、客は松本人志の作り出したネタのイメージを共有して笑っているわけではないと思われるからだ。むしろ、浜田は、客に想像力などなくても、「おかしなことを言っている」というレベルだけで笑えるようにしてくれている。ダウンタウンには二種類の笑う客がいて、つまり松本のネタをわかっているひとと、そうでもない人だ。誰も疎外することがない。

 

 

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