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機知を用いる笑いをチャップリンは狭義のユーモアと称した。では広義とはなにか。それは、「人間の生存意識」「健全な精神」に関わり、「均衡感覚」さえ私たちに与えるものだ。テレビに出てくる多くのお笑い芸人は日々、自らの機知を遺憾なく発揮しているが、しかし、彼らの笑いが「現実との接触」などを描くことはほとんどない。物事を抽象的に捉えれば捉えるほどに、その笑いは現実から離れていく。
イーストマンは笑いには「遊びの気分」が必要だと言った。遊びの気分の反対にあるものはまじめである。
真面目とは、ものごとをある側面から見て、それ以外の側面から見ないことである。あるものごとに対する価値の言説を絶対視して、その価値以外の価値に目を向けない状態である。反対に遊びとは、ものごとをある一定の側面だけから見るのではなく、普段は目を向けない別の側面からも見ることであり、あるものごとに対する価値の言説を一旦保留して、それ以外の価値に注目することであろう。そうして、ものごとに対する通常の見方や価値から一旦距離をとり、別の見方や価値をそこに見出してみる。
遊びのモードにならないと、いくらくすぐられても笑えない。
子どもは遊びの達人であり、幼児にとっては相手のどんな表情も笑いの対象である。この「気分」によってこれまでの笑いを整理することもできるだろう。つまり、優越の笑いは、この気分なしに笑える。彼らは「烙印」に対して真面目であり、優劣を感じて笑う。機知はどうか。ここには笑いの気分がないといけない。ボケの言ったことでいちいちボケの精神状態を気にしてはいられない(「あの人、ヤホーっていつも言い間違えるな……頭大丈夫?」)。ユーモアは遊びを尊重する。
TAMAYOという日本人の女性コメディアンは著書で日本人の笑いが優越感をベースにした自虐の笑いに勤しんでいるばかりいるのを批判している。「コメディの神髄って、私たちの中にある、こりかたまった固定観念や先入観を笑い飛ばして、ひっくり返すことにあるのに、よけい固めてどないすんねん」
濱田祐太郎は自らの身体性を用い、その社会的立場をお客に突き付けて笑いを起こそうとする。「自分の人生をジョークにする」だが、日本で誰もがそんなことをできるわけではない。自己開示が躊躇なくできる人間でないといけないし、日本人が苦手そうなところである。ここで活路を見いだすのは、綾小路きみまろなどの、中高年の情けない自分を客自らが笑うような、「かまい合い」の「快適空間」だろうか。
日本では2016年、障害者施設を襲撃して入所者を殺害する事件が起きた。税金を使って生活保障を行わないでいい、というのだ。他人に迷惑をかけるなというやつだ。しかし障害があろうとなかろうと、その考え方が「掟」化されればされるほど、自らの弱さを肯定することは難しくなる。なぜって、弱い奴は人に迷惑をかけるからだ。掟に囚われれば囚われるほど、自己を否定するようになる。
それが今の日本社会に漂う「気分」なのではないのか。
ビートたけしは言った。
こんな時代にバカをやる。それ自体に意味なんてない。叩かれて、叱られるだけだ。でも、俺たちはバカをやる。それは、時代を変えるためじゃない。時代に、テメェを、変えられないためだ。
(日清食品CM OBAKA’sUNIVERSITY)