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(もう一度!)にんじんと読む「現代認識論」 第一章+第二章

第一章 知識の標準分析

 知っているとはどういうことか。標準的には、知識とは、正当化された真なる信念である(K=JTB, Knowledge= Justified True Belief)。自分がリストラされないのに、「自分がリストラされることを知っている」と主張するのはどうかしている(True)。また、リストラの意味をまったく知らずにどこかで聞いたことがある音列として「リストラされると知っています」といっても、その人は当然、知っていることにはならない(Belief)。

 また、正当化も欠かせない。「宇宙人がいるのを知っているよ」「証拠は?」「ない」などと言う奴を知っていると認めるわけにはいかない。だが一体、正当化とはなんなのか。何をすれば正当化したことになるのか。「目の前に車がある」「まだスーパー開いてたよ」などといったことは、どうすれば正当化できたことになるのか。

 

※信念というのは、その人がなんとなくでも受け入れていることである。キース・レスラーの思考実験で生み出されたMr. Truetempという架空のキャラは、気温を正確に計測する装置を頭に埋め込まれている。彼自身、装置を埋め込まれていることを知らないので、なぜ自分がこの温度に至ったのかわけがわからず、「34.2℃だね」というときも別にそれに対して信念があるわけではないともいえる。標準分析に信念という心理状態を含めないということも当然考えられる。

 

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

 

 

第二章 ゲティア問題とは何か

  K=JTBを否定するためにはJかTかBがいらないことを言う方法のほかに、「JTBだけど、Kにならない」と言う方法がある。ゲティアが提出したのは、後者のものであった。この本で挙げられている反例ではないが、時計台の例を挙げてみよう。

あなたは時計を持っておらず、時間はいつも窓の外に見える時計台で確認している。時計台が12時を指していたので食堂に行ったが、後日、時計台はその日メンテナンスで12時に止まっていたことが発覚。たまたま時計台を見た時に本当に12時だっただけなのだ。―――だが確かにあの日、あなたは「12時であることを知っていた」はずだ!

  •  正当化されていることは必ずしも真を意味しない(意味するならTという条件はいらないだろう)。また次のことも認めてよいと思われる。
  •  時計台が12時を指している。それは12時であることを含意する。だからあなたが時計台が12時を指していることを知っているなら、今12時であることも知っている。

 二番目の条件は小難しく、「正当化に関する閉包原理」という。たとえば「後悔」は閉包原理を満たさない。なぜなら、あなたが昨夜パーティで飲み過ぎたことは昨夜あなたが生きていたことを含意するが、飲み過ぎは後悔しても生きていたことを後悔しているわけではないだろう。

 

 さて、ゲティアの反例を潰したいなら、二点の前提を攻撃するか、反例になっていないことを指摘するか、どちらかを行なわないといけない。まず直観的に考えるならば、時計台が12時だったというのが「証拠として甘い」ことが挙げられるかもしれない。しかし、正当化は真であることとは切り離されており、この指摘はうまくいかないだろう。どうせなら「私たちに真などわからない。せいぜいできるのは正当化ぐらいだ」とまでいったほうが、悪くない戦略である。

 だがこういうこともできる。ゲティアが「これは知識じゃありませんよね?」と訊いてきたとき、それは明らかなことだとされていた。しかし、本当に上の例は知識とはいえないのか。「本当に12時なんだから別にいいだろ、””辛うじて知っている””ぐらいのことだよ」ともいえそうではないか。―――この応答は、知識というものの揺れを示すが、ゲティアの問題提起を無効にするほどの威力はない。というか、知識がそんなものであっては困るという事情もある。

 

 というわけで、ゲティアの問題提起を受けて、知識の条件を厳しくしようという話にもなる。そこで出てくるのが証拠の強化であり、即ち、その根拠の中に偽が含まれないようにすることであった。これはNo false lemmaと呼ばれる方針であり、実際、ゲティア直後はこれで知識の定義が進んだ。あまりにもアドホック(対症療法的)であり、キース・レスラーが指摘するように問題も多い。一口にいうと、他にいくらでも有力な証拠がたくさんあるのに、たった一つの偽のおかげで知識がお釈迦になるからである。つまり、第四の条件が「キツすぎる」。

 こんな例も考えてみよう。

あなたは草原で大きい動くものを見た。「きっと牛だ!」と思った。なにしろどっからどうみても、動き方から何まで牛にしか見えない。というわけであなたは「私は草原に動物がいるのを知っている」と言ったとしよう。だが残念ながら牛ではなく馬だったことが発覚する。

 あなたが動物がいると思ったのはそいつを牛だと見間違えたからなので、知識とはいえないことになる。じゃあ動物がいると言っちゃいけないのか。

 あるいはこうもいえる。あなたの発見した偉大な理論はあらゆる現象をきれいに説明してくれる。ところが知らんうちに故障していた機械が異様なデータを弾き出してしまい理論とうまく合わない結果を呈出してしまった。その瞬間、その理論は知識ではなくなってしまう!

 おかしな証拠が一個紛れ込んでいただけで全部を駄目にするのは行き過ぎている。第四の条件はあまりにも潔癖すぎたのだ。

 

 そうなってくると、条件を弱めようという話になる。偽の証拠が混じっていてもいいケースがどういう風に発生するのかを突き止めればよい。しかしこれがおそろしいほど難しい。コレさえあれば、という風に機械的に汲みつくすことができないのだ。

 レーラーは正面からこれに挑戦した。知識の条件とはすなわちこれだ!

  1.  SはHを信じている
  2.  Hは真である
  3.  SはHを信じることにおいて正当化されている。
  4.  根拠の中に偽が含まれていない。ただし!!
  5.  仮にSがすべての偽の命題を偽だと想定したとしても、SはHを信じることにおいて完全に正当化されたであろう。

 五番を言い換えよう。なにか間違っている命題Pがあるとしよう。そして実際に、SがPを間違いだと想定したとする。しかしそのように想定したところで、やはりまだ正当化できる……という。

 つまりこうだ。草原にいた黒い影。あいつは牛だろう。ということは草原には動物がいる。私が「草原に動物がいる」と知っているのは、牛であることが間違いだと想定したとしても、やはり動物であることが正当化されただろうということだ。たしかに、これならクリアできそうに思える。

 しかし問題は、「間違っている命題P」が任意であることだ。あなたは偽の命題すべてを偽だと想定しなければならない。しかもこのことは、「偽の命題だけを」偽だと想定することになる。なぜならもし真の命題Qを偽だと想定してしまうと、¬Qを真と想定したことになる。だが¬Qは今、偽のはずである。つまり、あなたは偽の命題を偽だと想定できていないことになる。

 だが、これは全知全能だと言っているのだと同じことである。「世界のすべてを把握したうえで完全に正当化される信念が知識である」などという理解は私たちの求めるものではない。

 

(※ ここまでの道行き ✖ No false lemma → ✖ レーラーの修正)

 

 レーラーはその後、阻却不可能性理論を提案する。まず「基盤的知識」というそれ以上正当化を必要としない知識を定義し、そしてそこから派生する「非基盤的知識」を考えたのだ。これは確かだというものから派生させるというやり方は基礎づけ主義のやり方である。直接的な知覚・記憶・直観といったような基盤を据えて「派生」という形で議論に集中することが出来る。非基盤的知識とは次である。

  1.  Hは真
  2.  SはHと信じている
  3.  SはHと信じることにおいて完全に正当化される
  4.  SがHを信じることを完全に正当化するPという命題が存在し、他のどんな命題もこの正当化を阻却(無効化)しない

 問題は阻却とはなにかであるが、SはPによってHを正当化するときにQがそれを阻却するというのは、

  1.  Qは真
  2.  PかつQが、Hを信じることを正当化しない

 である。時計台がぶっ壊れているということを認めるなら、もはやあなたは12時だとは信じないのである。とはいえ、今度は阻却する事実をすべて排除しなければ「知っている」とは言えなくなってしまう。だが一方で、ある程度そういった確認が必要なのもたしかである。するとどういう範囲が適切かを決定しようということになる。この世には別に無視していいような事実がたくさんあるのだ。

 しかし、この線引きが難しい。レーラーたちが提案するのは「あなたが偽だと信じることにつき完全に正当化されているものだけを考えましょう」である。たとえばあなたが鉛筆をなくしたとき、「あちゃあ、置き忘れた」と思ったとしよう。ここで考えるべきことは、たとえばあなたの親友が「窃盗癖のある奴だ」というものである。親友はそんなやつではない。そんなやつではないが、置き忘れたと信じる証拠と窃盗癖を合わせて考えると、どうも置き忘れたことが怪しくなってくる場合、親友の窃盗癖は阻却要因である。―――でも親友のことを漠然と窃盗癖があると思っている場合ならどうなのか。「完全に」ではなく「なんとなく」そう思っている場合もやはり阻却要因にはなるのではないか。

 

 ゲティア問題の乗り越えは、単に条件を工夫するだけでは駄目なのでは?

 

 それが視点の転換を促した。

 

 

 

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

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  • 作者:戸田山 和久
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