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にんじんと読む「楽しむということ(M.チクセントミハイ)」🥕 第一章、第二章

第一章 楽しさと内発的動機づけ

 働くのは金を得るためだ。金を稼がないことは「非合理的」な行動であるとみなされる。ところが、にもかかわらず、そのような物的報酬を自ら放棄して藝術に精を出したり、チェスや将棋に打ち込んだり、エベレストを目指す登山家がいる。

金銭や地位のような外発的報酬は人間の基本的欲求(略)であるということは常識的な仮説である。

楽しむということ

  だが物的財貨を求めるのは、私たちが一つの文化へ社会化された結果、つまり学習される動機付けのひとつにすぎないことは文化人類学におけるさまざまな研究からたしかなことである。世俗的な物的報酬と結びつかない目標の追求にエネルギーを注ぐ人々の存在からもこのことを理解することが出来よう。

 外発的報酬がもたらす慰めは、危険を伴う。

  1.  たとえば、金が手に入るとなれば仕事の中身などどうでもよくなるように。その行為を正当化するものはただひとつ、金だけだ。そしてそのことが「為さねばならぬ」ことが「つまらない」「楽しくない」ことを意味するようになり、この文脈において、仕事と余暇の区別を学習する。余暇は好きなことをする時間なのであるが、物的報酬とは結び付かず、””なんの意味もない””ことを私たち自身が受け入れているので、余暇に罪悪感を感じる。
  2.  物的報酬は物的であるがゆえに、限度がある。資源の浪費と搾取は必然の結果であり、人類がみな物的報酬のために動き出せば、すぐに大地は枯れはてるだろう。
  3.  同じことは権力・威信・尊厳など、その他の外発的報酬についても当てはまる。これらはほかの人々が「持たない」ことを頼りにするゼロサムゲームなのである。外発的報酬に依存すると成員間の疎外を生みだす。

 私たちが向かうのは外発的に対抗する内発的動機づけである。心理学的研究の焦点を個人の内的事象の上に戻そうとする試みは行われてきたものの、「楽しさ」と「快楽」を同等に扱っている例が多い。プラスの反応を生みだす生理的な刺激=快楽は、わざわざ危険なところに赴くクライマーたちの行動を説明できない。普通に考えれば危険だし、本人だって怖いと思っているのだが、適切な条件におかれると痛快な経験に変わる。このことがなぜ可能なのかを理解するためには、(1)外部刺激の客観的特徴、(2)当人と学習の結果として得た快体験との結びつきのパターンだけではなく、(3)個人の目標や能力、(4)外部状況に対する主体的評価といったようなものも含んだ全体的な研究が必要である。それが「楽しい」ものであるかどうかは、単に快いものというよりもずっと複雑なものなのだ。

 心理学の中において自然科学的領域である行動主義は刺激ー反応図式で説明しようとして、たとえば絵画などの行動は、その過程ひとつひとつが報酬となりうる刺激と結びつき、やがてパターンが構成され、最終的には絵を描くこと自体が報酬となるがゆえに、絵を描くのだという。あるいは精神分析の場合、人々はリビドーに基づく好奇心を直接満たすことができないために絵を描く。ところがこうした「還元論的説明」は不満足な結果に終わる。リビドーだけが原因なら、別にあんなにむずかしくなくていい。満足したいなら手早いほうが便利だ。それでその複雑さの説明を超自我に求めていく羽目になるが、はっきり言えば、十分な説明とはいえない。

 これらの説明が現象の近似だと、一個のモデルだと解する限りなんの問題もないが、しばしば絶対的なものとみなされ、登山は男根崇拝となる。還元論的モデルはすべての科学的説明と同様、的外れというほどのものではないが、しかし一個のモデルである。いま私たちが問いたいのは、なぜそんな危険な真似までしてするクライミングが楽しいのか、ということである。そういう行動が結果として種が環境に適応するのに好都合だということは間違いないことだが、「なぜ楽しいのか」という問いかけの答えにはなっていない。

 

 

第二章 自己目的的活動の報酬

 世俗的報酬の欠如は、報酬の欠如を意味しない。活動から何らかの満足を引き出し、その満足が報酬となるがゆえに追及を動機づけられる。これらの内発的報酬はいったいなんであるかを、リビドーなどの還元論的説明ではなく、それ自体として迫ってみたい。

 面接と質問紙によって行われた実験によれば、たしかにそのような活動を行う理由は、多くが「その経験それ自体が報いのあるもの」であるからだったと回答している。活動によっては重視するものに差はある。たとえばバスケットボールに打ち込む人々にとってそこで育まれる「交友」は重要だが、ダンサーや作曲家はそれほど重視していない。これらの相違は自己目的的な活動が内発的動機づけに強く結びついていることを否定するものではなく、たとえばバスケにより打ち込む人々と活動から少し離れている人を比較すると、経験の楽しさや個人的技能の向上、そして理想の追求が重要な報酬としている傾向が強い。

明らかに、作曲のような基本的な自己目的的活動に、より深く没入するようになるには、内発的報酬に感応しやすいことが必要である。

楽しむということ

  ここで分析上、三つの概念を区別しておこう。ふつう自己目的的な活動とは、自己目的的な経験を伴うもので、自己目的的な人とはこのような経験をもつ傾向にある人のことをいう。ゆえにこの三つは切りはなされたものではないのだが、自己目的的な活動が常に自己目的的な経験をもたらし、内発的報酬に敏感な人はどんな経験も楽しむという風に単純なものではない。

 ある種の活動から人々は楽しい経験をすることができることを知っている。そこで肝心の「自己目的的な経験」とは一体何なのか。どうしてその活動がそれを可能にするのかについてはまだ答えられていない。

 

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

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第三章 略