にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「楽しむということ(M.チクセントミハイ)」🥕 第四章(終わり)

第四章 楽しさの理論モデル

 自己目的的な経験は退屈ではなく、またふつうの生活のなかで入り込んでくる不安を生みださず、活動に完全に没入させ、絶えず挑戦を提供する。人は必要とする技能をフルで働かせ、明瞭なフィードバックを受け取り、すなわち人は筋の通った因果の体系の中にある。

 全人的に行為に没入しているときに人が感ずる感覚を「フロー」と呼ぶことにする。これは「自己目的的経験」を言い換えただけのものだが、この理由は、「自己目的的」という言葉がもつ含意を避けるためである。これではまるで内発的動機だけしか持たないように見えるが、そのような仮定はまったく必要ない。人はフローをいかなる活動においても経験し得る。そしてフローがある程度容易になるような活動(フロー活動)もある。ゲームや遊びは明らかにフロー活動である。創造的活動もまたフロー活動である。遊びと創造以外では幻想的とか宗教的と呼ばれることがらが関係する。ヨガや瞑想、宗教的体験についても言える。フローの重要さはその活動がもたらす外的目標のようなもの(完成した絵、科学者の理論、神の恩寵)によって覆い隠されてしまうが、実のところ、これらの目標は活動を方向づけるものであり、その活動を正当化するために表象にすぎない。そこで重要なのは行うことであり、その結果自体が満足をもたらすわけではない。

 さて、フローの明瞭な特徴は行為と意識の融合であり、彼は自分の行為を意識するが意識していることを意識することはない。意識していることを意識することはそれを外部から見ることであり、フローは妨害される。しかし人間は束の間しか意識の意識を止めることができない。しばらく続く程度にまで融合するためにはその活動はその人にとって手ごろなものでないといけない。儀式やゲーム、ダンスなど、ルールが確立しているものにおいて、もっとも頻繁にフローが観察されるのはこのためである。

 フロー経験の第二の特徴は、限定された刺激領域への注意の集中=〈意識の限定〉である。この特徴から行為と意識の融合が生ずるのだろう。邪魔な刺激を外に追い出すことでもある。動機付けに金が絡むと、外からの侵入をうけやすくなり、プレイから気が逸らされる。

 フロー経験の第三の特徴は、〈自我喪失〉などと呼ばれてきた。創作活動をしている人やプレイヤーなどが「自分がいなくなってしまう感覚」などと呼んだものである。フロー状態にある人は自分の行為や環境を支配し、しかも支配している感覚がない。先に書いたように、フロー経験は、ある程度手頃さが必要であった。ルールによって認められたことがらのほかに、なんらかの脅威が自分に起きようはずもないと確信できている。フローの状態にある人はその活動に没入しきっており、次にどうすればいいかなど考えない。行為とそれによるフィードバック、そして反応が自動的で、噛み合っている。

 最後の特徴は、自己目的的、つまりそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないことである。

フロー活動は刺激の領域を限定することによって、人々の行為を一点に集中させ、気持ちの分散を無視させるが、その結果、人々は環境支配の可能性を感ずることになる。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから、その中で行動する人々は、しばしの間、我を忘れ、自分にまつわる問題を忘れることができる。以上のすべての状態が、人々に報いのある過程を発見させるのである。

楽しむということ

  私たちはしばしば外発的動機を必要とする。その意味では、フローに入りやすいフロー活動というものは、フローを促す構造化された行為の体系と見ることができる。フロー活動はもっぱらフローを生み出すためにのみ構成されているようなのである。いかにしてフロー活動はフローを生み出すのだろうか。

 フロー活動が共有する特徴は人が退屈や不安を感ずることなく行為する機会を含んでいるということであり、言い換えれば、行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のことである。もしも挑戦に比して技能があまりにも上回っているなら退屈だし(レベル2でクリアできるダンジョンをレベル100で挑む)、あまりにも下回っているなら不安である。とはいえ、この単純なモデルは挑戦対象の性質と技能の客観的水準のふたつにのみ依存しているという点で、おのずと限界が見えてくる。実際のフローは、その人本人が挑戦や技能をどう知覚するかにかかっている。傍からみれば技能と釣り合った挑戦だとしても、フローになるか、不安や心配、退屈が起きるかは決して予測できない。つまり客観的要求と自己目的的なパーソナリティ構造について理解しておかねばならないが、後者については特に、未知のままである。とはいえ、近似的でよければ、客観的構造について理解するだけでいいだろう。

 より重要なことは、フローが生じうるように環境を再構成するその人の能力である。フローを経験したいときに心配が生じて来るなら、挑戦レベルを落とすか技能レベルを上げればよい。相手にハンディキャップを課すのもよいだろう。

 

 日常生活において行われる些細な、自動的な行為は、それ自体が楽しいこととはいえないとはいえ、より構造的な活動への没入を助長するが故に重要である。たとえば退屈な講義中に落書きをしたり、手紙や論文を書く際に喫煙をしたり、固い本を読むときに心をさまよわせたりすることは誰しも行うことである。これらを「マイクロフロー活動」と称し、考えてみよう。フローの分析の時にみたように、フローは極端に単純なものから複雑なものへと至る連続体の上に位置している。それゆえ、マイクロフロー活動のような極めて単純で、低い水準の技能しか要求していない点で、フロー・モデルに照らして研究することは当を得ている。(第九章より)