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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章①

第一章 『論理学研究』における現象学と志向性

 現象学にとって、『論理学研究』という著作は「突破口」になったのだと、フッサールは回想している。この著作の第一巻はいわゆる論理学的心理主義の徹底した批判を加える。論理学的心理主義は、思考というものはつまり心理的・主観的な働きに他ならないと考え、論理学は心理学の一部であると主張した。つまり、認識作用は心で起こるし思考作用も心で起こるんだから心理学だろ、ということなのだが、フッサールはこれに反対した。

 論理学の命題の真理性は心的状態・心的活動のように時間と空間のうちで生成消滅するものではない。つまり妥当したなら永遠にだとするし、妥当しないなら永遠に妥当しない。だからそもそも、論理学は経験科学の範疇にはない。たとえばピュタゴラスの定理は誰かの心で考えられるが、じゃあ考えなくなったら消え失せるのかというと、そうではない。それは依然として真であり続けるだろう。つまり、真であるという性質が帰属させられるのは、心理的な働きとして生成消滅する思考の過程ではないということだろう。もしそうした過程に真であるという性質が与えられるのなら、考える機会が多ければ多いほど真理の数が増えることになる。

 だからむしろ、真であるという性質が帰属させられているのは、心的な働きという一回的な出来事ではなく、心的な働きによって把握される何か””客観的なもの””のほうであろう。フッサールは、このように個々の働きとしての思考作用において把握される客観的内容を一般に「命題(Satz)」と呼ぶ》(p.3)。この””客観的なもの””つまり命題は、目の前にあるスマホやパソコンのような意味では、””客観的なもの””ではない。もちろん、ピタゴラスの定理は教科書に載っているし、文によって把握されるものではあるが、しかしそうした文や教師の言葉や教科書の数だけピタゴラスの定理があるわけではない。命題は心理的でも物理的でもない、””客観的なもの””なのである。

 このことを一言で言い表すと、命題や真理は一般に実在的なものではない、となる。フッサールは一般に、時間と空間のうちに個別化されるものや、そのものの持つ性質を「実在的(real)」と呼んでいる》(p.4)。命題や、真理という性質は時間・空間のうちで個別化されているわけではない、それ自身、永遠の同一性をもつ「理念的(ideal)」なものであると言える。この実在的/理念的という言葉によって、心理主義との対立を簡潔に言い表すこともできるだろう。

対立は、論理学の主題がただ実在的なもの(出来事)であるに尽きるのか、それともそうではない――つまり何か理念的なものが主題化されねばならないのかという点にある。心理主義者たちは前者と考え、フッサールは後者と考える。(p.4)