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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章②

 『論研』第二巻の問題意識はフッサール心理主義の対立において、フッサールの主張が正しいと考えた時に生じてくる。つまりもしフッサールに軍配が上がるとすれば、かたや心理的ー実在的な存在者としての我々があり、かたや理念的な命題とその論理的連関があり、両者は区別される。しかしこの二つになんのつながりもないならば、論理学など学んで何になろうか。では理念的なものと実在的なものの繋がりはどのようにして為されているのだろう。

 

理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握される

 

 これが問題である。これに挑むには、論理学的認識(=理念的に客観的なものが実在的で主観的なものを把握すること)を支持するか、それを批判するか、いずれかを行わなければならない。とはいえ、ここでまず問題となるのは「論理学的認識」ではなく、「認識」一般である。なぜなら前者について何か述べるためには、後者の理念が解明されていなければならないだろうから。

 そうしてフッサールの研究は、対立していた””心理主義””的なものへと戻ってくることになる。これは矛盾ではないのか。なぜなら、「結局理念的なものも認識という心理的なものに戻って来るんじゃないか」と言えるからだ。とはいえ、これは誤解である。まずフッサールのいう””心理的””という言葉の曖昧さが事態をややこしくしている面もある。そしてより大事なことは、フッサールが厳しく反対していたのは、理念的なものが実在的なものに過ぎないとする立場であるということだ。この立場を批判することと、理念的なものが意識のうちにどんなふうに現われるかを研究することは全く矛盾しない。今、理念的なものを探求するために、どうしても認識について語ることが必要なのである。いわば、意識というのは理念的なものの調理台みたいなものという感じだろうか。