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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章③

 さて、命題というものはまず言語表現という媒体を通して与えられる。そこでフッサールが問題としたのは「表現」であった。表現が表現として機能するのは、そこに一種の志向的体験が成り立つからだというのが結論である。

 志向性とはなんだろうか。たとえば知覚は常に何かについての知覚である。言表するとはなにかを言表することであって、言表とは何かあることについての言表であり、愛することや憎むこともそうである。「こうした意識の働き=作用」というものは、ある対象へと向かい、あるいはそれへと方向づけられている。これが「志向性」である。志向性をもつ体験を志向的体験と呼ぶ(つまり、作用=志向的体験)。

 次はこの作用=志向的体験というものの内実を明らかにすることである。正確にいえば、体験を実質的に構成している部分(=実的(real)な部分)に即して記述することである。その部分の中でも特に抽象的なものを当該体験の「契機」と呼ぶ。それはたとえば図形の形や色のようなもので、《それ単独では成立しえず、必ずある全体(この場合、具体的な存在者としての図形)に常に付随して見出されるような部分ないし性質》(p.13)をいう。

 ※実的な部分でない、というのはどんなことをいうのだろう。それはたとえば、目の前に見ているペンという物理的対象の存在である。私たちはいまそのペンに方向づけられてはいるのだが、そのペンが存在しないことなどいくらでも考えられる。言ってしまえば、幻覚かもしれない。そこには志向的体験は成立しているが、その向かう先には対象がないのである!

 ※対象なしに志向的体験を分析してしまうのは、志向性というものを定義するにあたって現実的対象との関係など抜きにできるということを前提している。志向的体験をするのに今そこに現実的対象があるとかないとかはどうでもよいのである。《体験に「志向的」という性格を与えているのは、それがそこへと方向づけられているということは、まさに当の体験を持つ内的性格なのである》(p.16)。

 諸々の志向的体験を区別する契機(内容)を、フッサールは「質料(Materie)」と呼ぶ。たとえば木を見ることと机を見ることは体験として違うことであるし、私たちにはその識別ができているのであるが、これを区別する契機が質料である。もちろん机は木でできているので、木としても見ることができるのだが、そのカタチは一切変化しないで、””見方””だけが変わっている。一体何が変化しているのか。これが質料である。たとえば、ナポレオンは””ワーテルローの敗者””と””イエナの勝者””と、どちらともいえる。同じ対象を表象しているのだが二つは異なった徴表・形式・関係において表象している。これはその体験の質料の相違である。質料とは、作用自身がどのような徴表・形式・関係を対称性に割り当てるかを規定する特性なのである。

 しかし、質料が同じであれば志向的体験として何かが特定されるわけではない。たとえば『火星人がいる』『火星人っているかな?』『火星人がいたらなあ』といったようなことはすべて質料としては同一でありながら、それぞれ判断・質問・願望といったようにそれぞれ異なった体験である。このような契機を作用の「性質(Qualitat)」と呼ぶ。

 つまり志向的体験というのは質料と性質から定義され、その二つの統一がその作用の本質である。逆に言えば、ある体験が志向性を持つというのは、その志向性が体験の質料と性質の関数であるようなものといえる。