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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑤

 「雨が降っている」という文を理解するために、カーテンを開ける必要はなく、想像してみる必要すらない。ゆえに意味作用は知覚や想像といった直観的な表象作用とは区別されなければならない。だが、本質的ではないにせよ、実際に見て確認することはできる。そうすることで「ほんとうだ」と思うだろう。これが「意味充実化作用(bedeutungergullender Akt)である*1

 この「ほんとうだ」というのは、そこで言われていることと見ていることの同一性の体験である。なにが同一なのか。それは意味作用の質料と知覚作用の質料である。これが充実化という体験の基盤である。意味作用と知覚作用には充実化という統一がなされる内的な関係を持つといえる。《ある意味志向にはある直観がその充実化として本質的に対応し、ある直観には、それを充実化として受け入れるような意味志向はやはり本質的に対応している》(p.25)。雨が降っていることは青空を見ても充実化されない。

 

 

 

また、充実化が決して対応しないような「丸い四角」のようなものがあるが、これはそもそもその質料が直観的な形式のもとで現れないからである。これをフッサールは「反意味」と呼んだ。反意味とは、その意味内実が両立不可能な二つの表現部分から構成されているもので、充実化可能性がその本質からして排除されているものである。一方「無意味」であるとは、””アブラカタブラ””や””緑あるいはである””というように何ものも表現しない文字列であり、そもそも表現ですらない。反意味と無意味が違うのは、反意味的な表現は充実化可能性が排除されてはいるがそれでもなんらかの意味はもつことである。

 

*1:厳密な定義は、表現そのものにとってはなるほど本質的ではないが、しかしその代わり意味志向を多かれ少なかれ適切に充実し(確証し、強化し、顕示し)、それによって表現の対象的関係を顕在化するという点で、表現に対して論理的に根本的な関係にある作用である。