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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑥

  •  直観において対象が与えられること。この「与えられる」という現象的性格をフッサールは「所与性(Gegebenheit)」と名づけた。この概念は充実化の観点から理解されるべきものである。というのも、ある対象が与えられるというのは、ある志向に充実化が実現するということだからだ。
  •  充実化という概念は現象学的分析の主題であり、現象学の方法そのものを規定する重要なものである。これは「論理学的・客観的諸概念は単なる手形ではなく、現金化しなければならない」という比喩によって言い表される。これは端的に「直観せよ」ともいえる。直観とは志向を充実化する作用に他ならないからである。《ポイントは、現象学的分析はそれ自身、諸々の志向(概念)を直観化することによってその思考(概念)本来の意味と内実を明らかにする作業にほかならないということである》(p.28)。
  •  フッサールは、概念が直観のうちに起源を持つ、という言い方もする。これはいかなる概念にもそれが本来的に「与えられる」ところの直観的経験があるということである。こう見ると、現象学が経験主義に与するようでもある。しかし誤解してはならないのは、《現象学は、概念の経験的・発生的起源を同定しようとしているわけではない》(p.30)ということである。現象学が気にするのは、その概念が直観によって現金にできるかどうかという本質的可能性なのだ。一方、経験主義は概念が意味を持つか、持ちうるかということを、経験を用いて答えようとする。この点で、現象学と経験主義は区別されなければならない。
  •  上述したように、現象学は直観化可能性に重きを置く。ゆえに、私たちは理念をもまた直観することができることができるというアイディアを内包している。理念をも一個の所与足りうるのであり、これを与える意識の働きを「理念化的抽象(ideirende Abstraktion)と呼ぶ。これは理念を把握する作用である。これは私たちがふつう「直観」と呼ぶものとまったく異なっており、一般者・種・本質が対象となっている。この作用の存在は正当化を必要とするものではなく、私たちの生活はこの理念化的抽象なしには成り立たない。