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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑦

 さて、問題はこうだった。

  • 心理的・実在的な存在者である我々が、いかにして理念的なものと関わりうるのか。
  • 心理的なもの、それゆえ実在的なものと理念的なものとはどうして一種の内的統一を持ちうるのか。
  • 理念的なものがどうして実在的なもののうちに現象しうるのか、それゆえ真に客観的なものがどうして主観的なものとして与えられうるのか。

   たとえばピュタゴラスの定理は無数の人々によって学ばれるが、把握されるのは常に同一の命題である。しかし一つの同じ定理が把握されるというのはどういうことなのだろう? フッサールの答えは「理念化的抽象」にある。ピュタゴラスの定理について考えるという意味作用の志向的本質の理念を直観するならば、その理念こそ定理それ自体である。このことを命題・意味とは、個別的な志向的体験としての意味作用の種(スぺキエス)であると言おう。というのも、意味作用というものを成立させるためには””客観的ななにか””つまり理念的なものである命題が必要だから。

 真理もまた同様である。真理とは、単純化していえば、真なる命題のことである。しかし、正確には命題とは異なる。それは理念のひとつであり、たとえば「赤」などのように生成消滅を免れている。「赤」が体験され把握されるのが個々の事物においてであるように、真理もまた個々の体験に例化されることで姿を現わす。そして真理が例化される体験のことを「明証(Evidenz)」という。《言表の意味と事態のあいだの一致の体験が明証であり、そしてこの一致の理念が真理である》(p.36)。ここでの一致とは意味作用と直観作用との志向的本質の同一性、すなわち充実化の統一のことである。ここに「認識」がある。

 

 しかし、考えてみればちょっと妙なことがある。

  1.  作用はそれが向いている先に対象がなくても全然かまわなかったはずである。このことは真理についてもいえるはずであり、つまり、対象がまったく存在していなかろうが「認識」について語ることができるというのは普通に考えればおかしい。幻覚であろうが充実化は起こる。こんなものを「真理」と呼んでもいいのか。
  2.  どこかに地球とまったく同じ惑星があって同じような人たちが暮らしているとしよう。地球においても双子地球においても「水」の分子構造は知られていなかったが、あるとき、それぞれの地球に住む別の人が「水だ!」と言ったとする。ところで地球においては水はH2Oであるが、双子地球においてはXYZという分子構成になっているとしよう。だから同じ「水だ」と言っても実は同じとは言い難いのだが、二人には現象的・質的相違がみられないから、以上までの理屈でいけば同じ一つの命題を把握していることになる。

 この問題を生みだしているのはもちろん、真理というものを意味作用と直観作用との志向的本質の同一性に見出しているところにある。だがそもそもフッサールがこんなことを言い出したのは、いわゆる「外在世界」という体験的に与えられる内容を越えることについて口出しするのはよくないという彼の認識論構想ゆえである。

 ここを乗り越えなければならない。