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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第二章② ここまでで中断

 誤解がないようにもう一度、はじめよう。第一章で見てきたのは『論理学研究』における現象学であった。しかし『イデーン』においてはより一層、心理学との差別を明確化させている。そこでは現象学はいかなる意味においても、「心理学」ではなくなる。

  •  心理学: 事実に関する学 であり 実在に関する学
  •  現象学: 本質に関する学 であり 非実在に関する学

 『超越論的還元』によって非実在的なものを主題化し、『形相的還元』によって非実在的なものの本質を主題化する。彼は論理学研究においては現象学と心理学の違いを事実/本質という区別のもとで考えていたが、いざ考えすすめるとより早い段階で、心理学との区別が明確になることが明らかになったのである。

 その考察に至るためには、認識論を考えればよい。事象それ自体について知るということは、「知る」という主観的体験を持つ必要がある。とはいえ、それは感情や感覚とはまったく似ても似つかない。知識とは自らを超え出ることなしには、ありえない。だからなによりも認識論の問題とは「超越」の問題でもある。私たちの外に関わる話。

 哲学はこれまで認識論をいろいろ話し合ってきたが、肝心なのは、それ自身が主観的でありながら、客観性と妥当性を持つという不思議なことの意味を理解することだ。ここに現象学的認識論がある。私たちが現に行っているこの「認識」を改めて問い直してみよう。しかしそのためには当然、知らないことを前提にして突き進むわけにはいかない。そこでよくわからないことはすべて棚上げにしよう。この懐疑主義的な態度が出発点となる。

 しかしそうとはいえ、まさか本当に「すべて」を疑うわけにはいかない。何もかもがわからないなら何かを理解することなどできない。そこでまず問題なのは、何が確実にわかっているかだ。たとえば、あなたがすべてを疑わしいと思ったとしよう。だがあなたが「すべてが疑わしい」と判断していることは疑わしいか。疑わしいということは疑いもなく確かだ。つまり確かなのは《私が認識しているという意識についての認識》(p.75)だ。こうして絶対的に与えられていると言えるもの、つまりそれについてはいかなる疑いも無理解も可能ではないような仕方で直観されうるものへと自らの足場を固めることが、『超越論的還元』に他ならない―――もはやこの時点で、現象学と心理学は袂を分かつ。つまり現象学は、すべてを脇に置く判断保留(エポケー)と超越論的還元を、その方法的態度として採用している。心理学ではそんなことはない。心理学は超越をそのままにしておく。客観的な時間・空間をそのまま受け入れて考察を進めるのが自然科学であり、心というものを取り扱う心理学もその仲間である。だが、現象学はあらゆる超越を絶対的なエポケーにかける。

 超越論的還元によって私たちに与えられるものはもはや、心的なものでも物的なものでもない。「これは心的なものだ」として把握する体験は、それ自身ひとつの超越である。それが心的現象として与えらえているのならば、それを心的現象として捉える一つの要求として見る。それを「心的現象だと捉えている」という一つの現象があるだけで、それが心的現象かどうかは判断保留しなければならない。

 

 こうして心理学と現象学は決定的に区別されることになる。

 

 

 現象学的還元によって与えられたものは、体験であり現象である。これは物的でも心的でもない、非実在的なものだ。というのは、物的であるとか心的であるとかいった統覚は、すべてエポケーの射程に収まり、撃墜されてしまうものだから。この還元がもたらすものは徹底した「現象化」ということで、超越を少しでも含む主張の妥当性を議論するのではなく、妥当性を要求しているそれ自身を一個の現象として見るという視座をもたらす。

 もたらされた純粋現象は、いつも「今ここ」という性格をもつ。仮に内容的にはまったく同じ知覚を持つとしても、それとは異なる。なぜならあらゆる客観的定立を考慮の外に置いているからだ。日時と時間が違うので違う現象だ、と言っているわけではなく、そもそもそうした””すでに過ぎ去った””という様態のもとに与えられている体験とはその時間意識において同一性を主張しえない。一方は「今ここ」、そして他方は「過ぎ去って」ある。現象学的に言えばすべての体験は絶対的に一回的なのだ。純粋現象はそれゆえ、絶対的に個体的であり、一般者ではない。すなわち、これは「理念視」とは決定的に異なる。

 そうしてこの、一般者ではないという事情こそが、現象学がここでとどまっていられない理由でもある。現象学的認識論の目的はいろいろある認識現象の「本質」を確定することなのだから。だから私たちは与えられる個々の現象の本質を見て取ることが次の課題になる。しかし純粋現象を得て、次の一歩は大問題だろう。なにしろ、少しでも行こうとすると「超越」について語ることになってしまいそうだから。