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にんじんと読む「道徳の自然誌(マイケル・トマセロ)」🥕

 同情と公平。これは協力における二つの形「利他的な援助」と「相利共生型の協同」の二つの違いを説明するものとされる。道徳性と呼ばれる協力形態においても無論である。そして同情とは道徳性において基礎的なものであり、血縁選択に基づく子への親の世話が進化的源泉であるのは間違いない。すべての哺乳類は最低限自身の子には同情的配慮を示すが、中には非血縁者に示すものもいる。《同情的配慮によって動機づけられた援助行動は、自由に行われる利他行動であり、余計な部分を取り除けば義務感は伴わない》(p.2)。そして、おそらくヒトに限定されるのが公平である。公平にはいわばバランス感覚が必要で、さまざまな方法に伴うさまざまな相互作用も勘案しつつ、自身を含めた関係者の「相応性」について道徳判断を適切に下さなければならない。みんなを良いようにしてやる、というだけではなく当然、悪い奴をこらしめようとか義務とか責任とか、同情に比べて非常にややこしい。《公平とは、多くの関係者の多様な動機から生じる多くの相容れない要求に対し、バランスの取れた解決策を探し求めるために競争を協力化したようなものなのである》(p.3)。

 ヒトの道徳性は社会における適応の形態であるはずで、つまり、社会でうまくやっていくようにするためにそのメカニズムが形づくられてきたのであろう。この本ではその進化を説明することを目的とする。類人猿は自分と違う他の個体と相互依存的であり、長期に関係を結び、この関係に日々投資している―――《ヒトの道徳性の自然誌を考察する際の進化的な出発点は、類人猿一般が相互に依存している相手、すなわち血縁個体や友達個体に示す向社会的行動になる》(p.4)。

 

 この出発点からヒトの道徳性への進化の説明こそ「相互依存仮説」である。これは二段階から成る。まずは「協同」、そして「文化」である。

 最初の段階が起きたのは何十万年も前、生態変化によってパートナーと協力しなければ死ぬ状況へと追いやられた。これによって血縁個体や友人(類人猿にも友人はいる)を超え、協同するパートナーにまで同情を拡大するようになる。ここで生じたのが「協同志向性joint intentionality」=「相互依存的な複数主体のわたしたち」を作るという技術と動機だ。共通目標を設定した共同志向的活動に参加することでパートナーが等しく相応しい二人称の主体であるという認識を両者にもたらし、さらに、この関係からハブられたくなければどうすればいいかという規範も生じた。《最終的に、共同志向的活動のパートナーに関わるこれらの新しいあり方すべての結果、初期ヒトはある種の自然な二人称の道徳性に達したのである》(p.7)。

 次の段階はホモ・サピエンスの誕生した十五万年前にはじまり、これは人口動態の変化によって加速した。規模が大きくなると部族レベルの小集団へ分裂し、この部族同士が次の「わたしたち」になった。ここで生まれたのは「集合志向性collective intentionality」という技術と動機である。これにより文化的共通基盤に基づいて、文化慣習、規範、制度を作り出すことができた。《最終的に、集合的構造を持った文化的文脈で、互いを関連づけるこうした新しい方法のすべてによって、現生ヒトはある種の文化・集団指向的な「客観的」道徳性に到達したのである》(p.10)。

 ということは、私たちは少なくとも三つの異なる道徳性の支配下にあるだろう。道徳的ジレンマの多くは、この三つの対立によって生じる。

  1.  類人猿一般に見られるような、血縁個体や友達に対する特別な同情を中心に組織された協力的傾向。《すなわち、燃えているシェルターから助け出す最初の人間は、自分の子供か配偶者であり、熟考は必要ない》(p.10)。
  2.  特定の状況では特定の個体に特定の責任をもつという、協同という共同道徳性。《すなわち、次に助け出すべきは、今火を消すために協同していて火と格闘しているパートナーである》(p.10)。
  3.  文化集団のメンバー全員が等しい価値を持つという、文化規範と制度の(個人が表に出ない)集合的道徳性である。《この道徳性にしたがえば、その災難からすべてのメンバーを等しく、誰彼によらず助け出すことになる》(p.10)。