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にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 第一章

第一章 私は何を知っているか

 「従順な死」。哲学者フィリッパ・アリエス産業革命以前の数千年のヨーロッパでの死をそう呼んだ。そこでももちろん死は恐れられていたが、《死は身近にあり、急に来て、周知、公然のもの》(p.11)であり、《死を迎える人も、付き添う人も、対処法を心得ていた》(p.11)。

 一方、現代人は筋書きを知らない。《現代人は思いのままに死を「演出する」最初の世代である》(p.12)。次の引用には現代人の持つ「良き死」の演出の典型的パターンが書かれてある。これが目標なのだ―――そして多くの場合、こんなことにはならない。

したがって、理想的な死についての現代の一致した意見はこうなる。年齢は百歳、仕事も私生活も充実し、これまで風邪以外に病気をしたことはなかったが、今は病気である。病気でも知力は確かで、意思疎通もでき、食べる楽しみは衰えていない。この病気はその時(死)を正確に把握できる。財産や事業利益を処理する。信仰心があれば、最後の宗教的儀式を受けて神と和解する。長い人生で得た知恵を引き出して伝えることができる。最後の美味しい食事をとり、手を上げて「さようなら」を言う。目を閉じた瞬間に死ぬ。家族や友人は臨終を深く嘆き悲しみつつ、力強い霊的体験をしている。あなたの人生と教訓は彼らを豊かにした。葬儀は喜びと復活の機会であり、おおぜいが参列した。あなたは後に残した人たちの記憶の中に永遠に生き続ける。

現代の死に方: 医療の最前線から p.32-33

  私たちの望みは、《死を現代的方法で飼い馴ら》(p.12)すことだ。だが大抵の死は平凡できわめてあっけないものである。死ぬ方法と時期はコントロールできない。できることはただ、死が日常的なものであることに気づき、過剰な医療を減らすことだ。死はどうにもならない。キューブラー=ロスは死の五段階の反応を考えだし、本にもよく載っているが、《五段階の反応を見せた人がいた記憶は私にはない》(p.27)。

死は、人生の何ものによっても扱いやすい大きさには加工処理できない。死はつねに主権者だり、主導権を握っている。

現代の死に方: 医療の最前線から p.27