にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

一生をどう過ごすか? M.チクセントミハイのフロー体験【過去記事「楽しむということ」】

 私たちはなぜ生まれてきたのだろうか。

 幸福(Eudaimonia;よき人生;開花)を考えるうえでの出発点は、私たちが動物の一種であるということだ。私たちはほかの動物となんら変わりのない普通の生物であり、その一方で、ホモ・サピエンスという非常に「特異な」生物である。なにしろ人間は複雑で高度な社会やら文化やらがあり、道徳があり、言語を使い、そもそも幸福などというものを考えている恐らく唯一の種である。

 ヒト以外の生物たちは、自己意識というものをかろうじて持っているか、あるいは持っていない。何も感じない機械ではないものの、私たちが思うような意味では決して反省しないし、よほどその種の能力に優れていない限り、飯を前にして「待て」と言っても止まらない連中である。そうして動く必要のないときは基本的に寝ている。

 だが人間ときたら、生活に必要なだけの金を得たとしても、決して動くことをやめない。それで人が死んだり、自分が死んだりしても構わないかのようである。そして実際、死ぬ者もいる。

そのようなわけで、多くの宗教が人間の不幸の原因として自我を非難してきたことは、さほど驚くことではない。過激な助言として、自我に欲望を左右させないことで自我の活力を奪う、というものがある。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  仏教はその中でも最も過激ではないだろうか。なにしろ彼らは一切の欲望を捨てよとすすめるのだから。悟りたいと思うことすら捨てなければならないのだからよっぽどだ。それは一つの極であるとはいえ、自分自身について警戒せよという助言は極めて有益なものである。問題はその「程度」だ。

 仏教の対極にあるのは、「個人主義と物質主義」だ。仏教は我を捨てるようにいうが、こちらは自己愛を富で育み守ろうとする。

われわれは自己によってアイデンティティを得て、自己は自分という存在の中心要素であると信じている。したがって、自己は、だんだん意識を構成する要素の中で最も重要なものになっていくばかりか、少なくともある人々にとっては、注意を払う価値のある唯一のもののように思われるのである。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  そうやって成長させた自己が理性的なら構わない。だが大抵の人間の自己はゆがんでいる。私たちを教育してきた者たちもまた、完璧な存在ではないからだ。

 

 私たちはここで「幸福」そして「徳」について進むことができるが、ここではチクセントミハイの筋道にしたがって、フロー体験を目指して進んでいこう。実はこのフロー体験は徳を技能に似たものとして見た時、徳とも深く関係してくる。

 やりがい、そして生きがい

 よき人生とはおそらく、生きがいのある人生だろう。

 そして生きがいのある人生とは、いまおそらくあなたが仕事に感じているような「あれをやれ、これをやれ、何時までに出勤しろ、明日も来い、ミスするな………はい、お金」という無味乾燥なものではないことはたしかだ。寝る以外の時間に何をしているか調べてみると、仕事や勉強といった「生産的活動」、家事や食事や身づくろいや運転といった「生活維持活動」、テレビを見たり読書したり趣味に使ったりくっちゃべったりごろごろしたりする「レジャー活動」の三種類があることがわかる。とはいえ、大事なのはレジャー活動だと思って飛びつくのは早計である。

 私たちにとってやりがいがあるというのは少なくとも、その活動のモチベーションが内発的なもの(やりたい)であって、外発的なもの(やらなければならない)でないことだ。私たちが目指しているところの、やりがいのある人生を完全に送っている人のことを「自己目的的パーソナリティ」を有すると呼ぶなら、彼はどんなことにもやりがいを感じ、〇〇のためといったような動機をほとんど必要としない。彼は外から与えられる報酬には興味がないのである。

 自己目的的パーソナリティを持つ個人の特質は、非常にエネルギッシュで、自分自身にはあまり関心を払わない。つまり、自分の都合に益する興味関心をもたない。彼らはもちろん何かの解決を目指すこともある。だがそもそも目標というものは精神をそこに集中させて注意散漫を回避するという効用がある。《たとえば登山者が目標として頂上に到達することを決めるのは、そこに到達したいという深い願望があるからではなく、目標が、登るという体験を可能にしてくれるからである》(p.196)。

 このようなパーソナリティを完全に持つことは望めないように思えたとしても、人生の質を高める、つまり生きがいを持つためにはここを目指すのが自然である。多くの人は、実利的でない対象に割くエネルギーを節約する。だが、この興味関心を育て損ねると、およそやりがいは手に入らない。

われわれは、人生をそれ自体として楽しむために必要な興味関心と好奇心を育てるために、時間を見つけ出さなければならない。そして、時間と同じぐらい重要なもう一つの資源は、心理的エネルギーをコントロールする能力である。注意を奪う外的なチャレンジが起こるのを待つのではなく、注意を多少なりとも意のままに集中させる術を学ばなければならない。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

自分の人生のオーナーシップを取り戻す唯一の方法は、自分の意図と一致するように心理的エネルギーを導く術を学ぶことである。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

 

 このような人たちが気にするのは、時間の浪費だけだ。彼らは自分に迫って来る「対処の必要性」を素早く処理する。われわれのもつ注意力を少しずつ浪費しているルーティンワークは、それに優先順位をつけ、整理し、簡素化すれば、想像以上に成果をもたらしてくれるだろう。時間の節約!

 

 

やらなければならないことに立ち向かう

 だが、私たちには労働という最大の壁があるではないか。《多くの人は、適正な賃金といくらかの安定を得るかぎり、仕事がどんなに退屈でも疎外されていても大したことではないと感じている》(p.143)。が、実はそのような態度はあなたの時間の40%ほどの時間を捨てていることになるのである。

 仕事というものはなぜ不愉快なのか。この問題に比べれば、より多くの賃金や生活の安定などどうでもよいと感じることだろう。

  1.  仕事は無意味。誰にとってもよいことをしないし、実際は有害かもしれない。
  2.  仕事は退屈で月並み。多様性もチャレンジもない。停滞の感覚。
  3.  仕事にはストレスが多い。上司や同僚。

 チクセントミハイはばっさりと《おそらく唯一の選択肢は、厳しい経済的困難という代償を支払ってでも、できるだけ早くやめることである》(p.144)と言い切っている。とはいえ、いずれやめるとしても今そのようなことに従事しなければならないことに変わりはない。やりがいのない仕事に「違い」を生むために、努力できることがあるはずだ。どうすればもっと価値が生まれるだろうか? どうせやらなければならないなら楽しくやりたいものだ。

どうやったら、それらがストレスにならないようにしておけるだろうか。第一歩は、意識にどっと浮かんでくる要求に優先事項を設けることである。より責任をもっていたら、何がほんとうに重要で何がそうでもないのかを知ることがより必要になる。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  しなければならないことはどうしても出てくるが、「目標を設定する」という行為は、多くの苦痛を取り払ってくれるだろう。ニーチェは運命愛(アモール・ファティ)ということについて言っている。すなわち、《何事によらず現にそれがあるのとは違ったふうなあり方であってほしいなどとは決して思わないこと、前に向っても、後ろに向かっても、永劫にわたって絶対に、……必然的なものを耐え忍ぶだけではなく、……そうではなくて、必然的なものを愛すること……》(p.197-198)。これをチクセントミハイ流に言い換えれば、《自身の行為のオーナーシップを握る》(p.199)ということだ。

 次のステップはそうした目標にスキルを釣り合わせること。

うまくやる力がないと感じる仕事もあるものである――それはほかの人に任せられるだろうか。自分は要求されたスキルを学ぶのが間に合うだろうか。助けを得られるだろうか。仕事は形を変えるか、もっと簡単な部分に分けられないだろうか。(中略)解決策の戦略に、注意を注がなければならない。コントロールを訓練することによってのみ、ストレスは避けられうる。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  生活のなかで仕事は主要な領域だが、もうひとつ重要なのがある。それは「人間関係」である。仕事を楽しんだり、楽しもうとしたりして、それに専念し始めて人間関係をおろそかにすると《幸福になるのは難しい》(p.155)。問題はバランスだ。家族は大事だということはすべての夫も妻も納得するだろうが、夫のほうは特に、冷蔵庫の中の食べ物とガレージの車さえあれば家族のために自分を捧げていると勘違いしている。家族は放っておいても永久に大丈夫なものだと安心している。だがそれは心理的エネルギー、つまり注意力を働かせてとりかからなくてはならないものだ。疲れ果てて帰って来た時、家族といることは努力が不要なこと、なのではない。ほかのどんなタイプの交流にもこのことはいえる。

 しかしなんてめんどうくさいのだろう。私たちは人間関係をある種の障害として見るようになった。これは西洋社会のルソー以来の考え方である。だがアジアの伝統的な見方では《個人は他者の交流を通して形づくられ洗練されるまでは、何者でもない》。私たちがいかに一生を他者に依存しているかは『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』においても詳しく語られている。そもそも、私たちはなかなか一人でいることができない。だというのに、ほとんどの人が孤独感に耐える能力があると自認している。しかし一方で、一人で過ごす時間が少なすぎると、また、多すぎると、問題が起きる。《いつも仲間とつるんでいるティーンエイジャーは学校で問題を抱えており、自分一人で考えるようにはならないだろう。一方、いつも独りでいるティーンエイジャーは簡単にうつ病や孤独感の餌食となる》(p.124)。チクセントミハイが言うには、「起きている時間の約三分の一」を一人で過ごすのが平均的らしい。それ以上を問題なく過ごすには、訓練がいるということだ。一人の時にもたらされるのは強い集中である。

 だが、やはり問題はバランスなのだ。孤独な存在として過ごすのも、人生を社交としてのみみるのもどちらも異常だ。

 

 

フロー体験

自己目的的な経験は退屈ではなく、またふつうの生活のなかで入り込んでくる不安を生みださず、活動に完全に没入させ、絶えず挑戦を提供する。人は必要とする技能をフルで働かせ、明瞭なフィードバックを受け取り、すなわち人は筋の通った因果の体系の中にある。

 全人的に行為に没入しているときに人が感ずる感覚を「フロー」と呼ぶことにする。これは「自己目的的経験」を言い換えただけのものだが、この理由は、「自己目的的」という言葉がもつ含意を避けるためである。これではまるで内発的動機だけしか持たないように見えるが、そのような仮定はまったく必要ない。人はフローをいかなる活動においても経験し得る。そしてフローがある程度容易になるような活動(フロー活動)もある。ゲームや遊びは明らかにフロー活動である。創造的活動もまたフロー活動である。遊びと創造以外では幻想的とか宗教的と呼ばれることがらが関係する。ヨガや瞑想、宗教的体験についても言える。フローの重要さはその活動がもたらす外的目標のようなもの(完成した絵、科学者の理論、神の恩寵)によって覆い隠されてしまうが、実のところ、これらの目標は活動を方向づけるものであり、その活動を正当化するために表象にすぎない。そこで重要なのは行うことであり、その結果自体が満足をもたらすわけではない。

 さて、フローの明瞭な特徴は行為と意識の融合であり、彼は自分の行為を意識するが意識していることを意識することはない。意識していることを意識することはそれを外部から見ることであり、フローは妨害される。しかし人間は束の間しか意識の意識を止めることができない。しばらく続く程度にまで融合するためにはその活動はその人にとって手ごろなものでないといけない。儀式やゲーム、ダンスなど、ルールが確立しているものにおいて、もっとも頻繁にフローが観察されるのはこのためである。

 フロー経験の第二の特徴は、限定された刺激領域への注意の集中=〈意識の限定〉である。この特徴から行為と意識の融合が生ずるのだろう。邪魔な刺激を外に追い出すことでもある。動機付けに金が絡むと、外からの侵入をうけやすくなり、プレイから気が逸らされる。

 フロー経験の第三の特徴は、〈自我喪失〉などと呼ばれてきた。創作活動をしている人やプレイヤーなどが「自分がいなくなってしまう感覚」などと呼んだものである。フロー状態にある人は自分の行為や環境を支配し、しかも支配している感覚がない。先に書いたように、フロー経験は、ある程度手頃さが必要であった。ルールによって認められたことがらのほかに、なんらかの脅威が自分に起きようはずもないと確信できている。フローの状態にある人はその活動に没入しきっており、次にどうすればいいかなど考えない。行為とそれによるフィードバック、そして反応が自動的で、噛み合っている。

 最後の特徴は、自己目的的、つまりそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないことである。

フロー活動は刺激の領域を限定することによって、人々の行為を一点に集中させ、気持ちの分散を無視させるが、その結果、人々は環境支配の可能性を感ずることになる。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから、その中で行動する人々は、しばしの間、我を忘れ、自分にまつわる問題を忘れることができる。以上のすべての状態が、人々に報いのある過程を発見させるのである。

楽しむということ

  私たちはしばしば外発的動機を必要とする。その意味では、フローに入りやすいフロー活動というものは、フローを促す構造化された行為の体系と見ることができる。フロー活動はもっぱらフローを生み出すためにのみ構成されているようなのである。いかにしてフロー活動はフローを生み出すのだろうか。

 フロー活動が共有する特徴は人が退屈や不安を感ずることなく行為する機会を含んでいるということであり、言い換えれば、行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のことである。もしも挑戦に比して技能があまりにも上回っているなら退屈だし(レベル2でクリアできるダンジョンをレベル100で挑む)、あまりにも下回っているなら不安である。とはいえ、この単純なモデルは挑戦対象の性質と技能の客観的水準のふたつにのみ依存しているという点で、おのずと限界が見えてくる。実際のフローは、その人本人が挑戦や技能をどう知覚するかにかかっている。傍からみれば技能と釣り合った挑戦だとしても、フローになるか、不安や心配、退屈が起きるかは決して予測できない。つまり客観的要求と自己目的的なパーソナリティ構造について理解しておかねばならないが、後者については特に、未知のままである。とはいえ、近似的でよければ、客観的構造について理解するだけでいいだろう。

 より重要なことは、フローが生じうるように環境を再構成するその人の能力である。フローを経験したいときに心配が生じて来るなら、挑戦レベルを落とすか技能レベルを上げればよい。相手にハンディキャップを課すのもよいだろう。

 

 日常生活において行われる些細な、自動的な行為は、それ自体が楽しいこととはいえないとはいえ、より構造的な活動への没入を助長するが故に重要である。たとえば退屈な講義中に落書きをしたり、手紙や論文を書く際に喫煙をしたり、固い本を読むときに心をさまよわせたりすることは誰しも行うことである。これらを「マイクロフロー活動」と称し、考えてみよう。フローの分析の時にみたように、フローは極端に単純なものから複雑なものへと至る連続体の上に位置している。それゆえ、マイクロフロー活動のような極めて単純で、低い水準の技能しか要求していない点で、フロー・モデルに照らして研究することは当を得ている。(第九章より)