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コミュ下手のための人間関係基礎論 ver.2.0

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 前回の記事では、

  1.  「人間関係がいかに人を疲れさせるか」
  2.  「過度の期待をやめ、あきらめることで疲れを予防する」
  3.  そして「共生という関係」

 について書いた。特に大事なのが予防策を打ったうえでの、具体的な対人関係を形成するための共生関係である。内容の要約をすればつまり、””所属集団””のルールを守ることが基本で、関係を深めるとはギブアンドテイクの契約関係を複雑化していくことだ。この説明を核とはしつつも、この記事では人間関係において中心的であるところの相互依存を主軸として、そこから人間関係を展開させていきたい。

 相互依存とは一言でいえば、私たちはケアし合う存在だということである。

  •  相互依存
  •  非等価(等価とは限らない)
  •  非個人交換(個人交換とは限らない)

 ケアは「相手」一般に行うものである。AさんにしてもらったからといってAさんに返すものではないし、やってあげた分だけ同じケアが返って来るとは限らない曖昧なものである。ケアし、ケアされる関係が人間関係において最も根本的なことであり、もし一方的にケアしたり、ただケアされることだけを望むなら、人間関係はありえない。

人を助けるとはどういうことか

 私たちが望むものは良好な人間関係だ。私たちの行う支援は、役に立つ場合もあればそうでないときもある。どちらかといえば、そうでないケースのほうが多いかもしれない。たとえばだれかに道を訊かれた場合、パソコンの使い方を訊かれた場合、悩み事を打ち明けられた場合。このような支援はプロによって行われることもあり、また、チームで行われることもある。もちろんマリオがピーチを救うのも支援の一種であり、(ありそうもないことだが)キノコ王国軍がピーチを救おうとするのも支援である。ここに金銭が絡む場合ももちろんある。専門性に応じて「非公式な」「準公式な」「公式な」支援と分類することもできよう。

 

 人間関係とは相互の支援関係である。われわれが学んで来た文化的な原則は次のふたつある(人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則)。

  1.  二つのグループの間におけるあらゆるコミュニケーションが、相互的なプロセスであるべきだということ。または少なくとも、公平で適正なものでなければならない。たとえば何かをされたら「ありがとう」を言うといったような基本的なことも含めて、やってもらったら何かを返すといった返礼のルール。
  2.  文明社会におけるあらゆる関係の大部分が、年少期に演じるすべを身につける、台本どおりの役割に基づいていること。

 状況に応じて、私たちは自らの役割を知る。相手が先輩であるときに敬意を払うことももちろんだし、自分が先輩であるときに敬意を払われることが期待できる。そしてそこにおいては私たちはそのような役割を要求し要求され、返礼のルールにもとづいて、それを認めたり相手の面目を立ててやらなければならない。「話したいことがあるんだ」とまじめに言われた時、あなたは相手の面目を立てて話を聞いてやらなければいけない。もし相手の要求を受け入れないなら、そこで話は終わる。簡単に言えば、あなたへ投資する価値は薄れる。あるいはこちらの高い要求を認めさせるために先に貸しを作っておくこともあるだろう―――支援とは社会的通貨である

われわれが自分自身や相手に置く価値の程度は、社会的行動や口にする言葉、見せる表情を通じて伝えられる。どれほどのものを要求するか、要求する人間の面目をどれくらい守らねばならないかといった、暗黙の経済上のルールは、文化や慣習によって異なる。しかし、日常的に使う言葉から、相互関係における社会的行動が経済的性質をもっていることがよくわかる。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 人間関係は投資である。戦略として、相手の反応を投資指標にすることもあるだろう。自分のステータスの高さをさりげなく主張してみたり、打ち明け話をしてみたりして、適切な反応を返すかどうかテストする。こうしたことは関係が深まってからもありうる。買い増しだ。

 

「人は他人とつき合うときに、ルールや幼少時から得た知識を用いて、どの関係を育てたいか、やめたいかを選択する」(p.46)

 

 そしてその関係ならその関係なりの対処法というものはある。事務的な関係でいこうぜというサインだってあるし、もっと親しくなろうというサインもある。コミュニケーションには技能的側面があり、つまり、熟達がある。(逆に下手になることもあるだろう)。

 

「つまり関係の深さは、人が自らをさらけ出す中で、自分のために安心して要求できる価値の量という観点から定義されるのだ。」(p.47)

「どんな関係でも、当事者が相手を信用して自分のことをどれくらい打ち明けるかに、親密さの程度が反映されている」(p.49)

 

 当たり前だが、出会った途端殴って来るようなやつは人間関係以前の問題である。いわゆる基本的信頼すらない段階、テストさえしようと思えない素行、その文化において当然・最低限の行動をとれているかどうかを判定するテストを「根本的テスト」と呼んでいいかもしれない。嫌な上司も、一応はこの根本的テストをクリアしている。このテストに合格しないような奴というのは、存在が耐えられない。警察に突き出して、檻に入れておいてほしいようなやつである。根本的テストに合格しているとき、その人は「根本的信頼を持つ」と呼ぼう。

 根本的テストが済めば、次は信頼性テストに入る。ここにもやはり、うわずみだけの付き合いで留めたいような、一切関係を深める気になれないような、そうした基準はある。これを単に「信頼」「信頼性テスト」と呼んでもいいかもしれない。《他人を信頼するとは、われわれがどんな考えや感情、あるいは意図を示そうとも、相手はこちらをけなしたり、顔をつぶしたり、自信を持って言ったことを利用したりしないと思うこと》である。信頼できないとは、つまりこの逆だ。「話があるんですが」と言われて完璧に無視するのは相手の顔を潰すことになる。もっといえば、あなたがその人に話を聞いて欲しいとき、そう要求する権利はない。

 だが信頼というのは程度がある。あなたがさらけ出したことがキツ過ぎる場合、さすがに相手だって受け入れられない。だから深い人間関係というのは、きわめて傷つきやすい立場であるともいえる。だから逆に「買戻し」もありうる。信頼していた友達が、自分の大切に思っていたことを小馬鹿にしながら話したら、関係は後退する。それどころか、二度と買い増しなどしないかもしれないし、恐らくそうだろう。

  これまで簡単に「買い増し」という言い方をしてきたが、それは向こうに役割を演じてもらうのと同時に、こちらが役割を演じることでもある。《日々のプロセスは適切な行動を演じる、一連の場面の展開だと理解できる。そうした演技は、自分にどれくらいの価値があるか、また日々の社交の中で俳優と観客の両方の役割をどう適切に演じるかについて、われわれが学んだことを反映している》(p.50)。そして付き合い方は学ぶものであり、うまくなることもあれば、下手になることもある。

 

 支援関係における7つの原則をまとめてくれている。

  1.  与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる
  2.  支援関係が公平なものだと見なされたとき、効果的な支援が生まれる。
  3.  支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる。
  4.  あなたの言動のすべてが、人間関係の将来を決定づける介入である。
  5.  効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる。
  6.  問題を抱えている当事者はクライアントである。
  7.  すべての答えを得ることはできない。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 

 

※なぜ人間関係が「イヤ」か?

 私たちの多くは人間関係を求めつつも、その支援関係に参入することを嫌だと考える。《成長することが自立を意味する文化においては》(p.64)一般的に、支援を求めることは「負け」に近いという理由で。私たちは依存的であるよりも、自立的であると思いたいのだ。教えられるより、教えたいものだ―――ここに人間関係を苦手とする一群を見ることができる。この群の人々の特徴は「被支援」の回避、対人における完璧主義(一人のときは完璧主義的傾向がないこともある)、指摘されたり、教えられたりすると自尊心が傷つく。だからこそ、人間関係を忌避する。彼らはもし「教えて」「助けて」と迫られたら、その関係を拒否しはしない。相手が弱ければ弱いほど、弱いシンボルを多く有すれば有するほど、よい。ただし、その支援に自分より強力な他者の介入が必要とされない限りはだが。つまり、赤ん坊は対象となりにくいと考えられる。相手が一定程度自立している必要はあるが、強すぎては困る。

 

人間関係は不安定からはじまる

  あらゆる人間関係は不安定からはじまり、不安定と共にある。安定したように見える関係は、細かな調整が気にも留まらないほどに滑らかに行われているからだ。その不安定は私たちの「無知」と「ワン・ダウンの感覚」に根ざしている。つまり、われわれはあまりにも相手のことを知らなすぎるし、また、支援を受けるのは自立した個人として許しがたいことなのだ。この不安定によっていとも容易く関係は壊れる。

  1.  《「パパ、算数のこの問題を手伝ってくれない?」と尋ねる息子は、本当のところ、もっと深くて個人的な悩みについて話したいのである》(p.71)。このように、《助けを求めながらも、本当はまったく別のものを望んでいる人間の感情に、支援者はとりわけ敏感でなければならない》(p.73)。これは被支援者からの信頼性テストでもある。相談できるかをテストされている。
  2.  信頼性テストに合格したと知るや、一気に依存度を上げてくる被支援者がいる。だがわたしたちは対等であり、主体的存在として互いを扱わなければならない。
  3.  対等でないという感覚をもった被支援者は、支援者の面目を潰すことによって、その均衡を保とうとすることがある。「そんなこともうやりましたよ」「それは〇〇だから駄目なんじゃないですか?」
  4.  支援者は相対的に高い位置にいる。彼らは不均衡のままで相手に助言をしようとするが、時期尚早であり、その時(受け入れる準備の整うまで)が来るまで待たなければならない。早すぎるタイミングで助言をすると、ワンダウンから来る反発を食らい、支援者も引き返すことはもはやできず、支援関係は崩れる。
  5.  私たちには積み上げて来た過去の経験があり、その「演じ方」「振る舞い方」をもとに行動する。しかしそれがどの劇場においても適切であるわけではない。

支援というものが、影響を与えることの一つの形だと考えるなら、自分が影響されてもかまわない場合しか他人に影響を与えられない、という原則はきわめて適切だ。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 この二つの不均衡の原因を潰すためには、相手の話をよく聞き、ワンダウンの感覚を縮めてやることだ。そしてそのあとで、問題に対処するためにどんな役割を果たせばよいかを考える。支援者としての役割は主に三つある。①情報やサービスを提供する専門家、②診断して、処方箋を出す医師、③公平な関係を築き、どんな支援が必要か明らかにするプロセス・コンサルタント

 まず第一に「専門家」である。道を尋ねられ答えるといったことも含まれる。複雑な問題となると被支援者も問題を理解していないし、支援者のほうも成功確率が低くなる。どちらもやはり理解し合う必要があるのだが、被支援者は基本的に専門家に頼りきりになる傾向がある。完璧にそれに関わる権限を委譲してしまい、つまり、言いなりになってしまう。ナントカというホールへの行先を訊かれるという単純なケースにおいてもこの問題は起きうる。被支援者としてはスミス氏の音楽ライブに行きたいのだが、その場所をそのホールだと勘違いしていることがある。そこで話をして、「ライブならそのホールではなくて、あのホールですよ」と教えてやるのが効果的な支援であろう。訊くほうも答える方も情報が少ないことを覚悟してかからなければならないが、一般的に、このような筋書きにはならない。

 第二に「医師」である。専門家の役割に加えて、処方箋まで出してくれる。つまり具体的に手を貸してくれる。医師は便利ではあるが、やはり専門家のもつ落とし穴を持っているし、さらには「指示に従うのはイヤ」という反発も招く。被支援者は自らの情報をすべて明かしていない可能性がある。医師の言うことに従わないやつを医師が愚かだと断ずるのはすべての情報を網羅しているという過信からくる。一方、被支援者が問題を理解しないという点も問題で、つまり私たちはお互いに何も知らない。また、支援を行うための診断プロセスは医師の役割においては、被支援者に大きな影響を与えるほどのものになりがちである。医師の検査それ自体が患者に不安を与えるのだ。

 第三に「プロセス・コンサルタント」である。これは相手の要求にこたえるよりも、コミュニケーションのプロセスに焦点を当てるものだ。関係の初期には特に必要な役割であり、問題が単純な場合は短時間で済む場合がある。たとえば「ちょっと体を起こしてくれないか」と頼まれて、「じゃあこっちの腕を引っ張るぞ」とか「触るぞ」とか声を掛けることなどもそうだろう。私たちはやはり何も知らないのであり、被支援者の問題がどう深刻なのかを知っている可能性があるのは唯一、被支援者だけなのである。

 

 

 

  私たちはお互いに何も知らない。知るためには聞く必要がある。だが、質問することは自らの立場を下げているように感じる。『論語 (岩波文庫)』でも、孔子儀礼のことを質問して回り周囲から嘲笑われているが(八佾十五)、質問して回る人というのはデカい声で自分の意見を主張する人よりも劣って見られる。リーダーとしては、意見主張の行動が期待されるほどだ。だが実のところ、そうしたやり方は関係に不利益をもたらす。支援を求める人はワン・ダウンの感覚に置かれることは前述したが、だからこそ、問いかけるということが重要になってくるのだ。私たちは自分がしゃべることには熱心だが、尋ねることには関心がない。

「謙虚に問いかける」は、相手の警戒心を解くことができる手法であり、自分では答えが見出せないことについて質問する技術であり、その人のことを理解したいという純粋な気持ちをもって関係を築いていくための流儀である。

問いかける技術 ― 確かな人間関係と優れた組織をつくる

  この謙虚さは、上司や先輩に対する伝統的な謙虚さ、立派だと思う人に対して任意に示す謙虚さとは区別される。今ここで必要な謙虚さは、自分がしようとしている支援が他者に依存していることを理解したうえでのものだ。これは被支援者には実感しやすい(なにしろ頼っているわけだから謙虚にもなる)が、支援者にこういう発想はないかもしれない。だがその支援が支援であるためには、被支援者を理解することが欠かせない。また、問いかけについても、問いかけに見せかけたマウントや意見、煙に巻こうとする質問、相手を困らせてやろうとするための質問にならないようにしなければならない。また、そんな悪どい質問でなくても、謙虚な問いかけにはなっていないパターンがある。支援には役立たないのに野次馬的好奇心で訊いたり、「それでどう思ってるわけ?」「何も感じなかったの?」と対決的姿勢を見せたり………。

 

個人的なつながりへ

 私たちは状況に応じて振る舞う。職場へ行ったら相手が疲れていようがいまいが「お疲れ様です」などと言うことになっている。文化的に、年齢や地位などに応じて振る舞い方がある程度決まっている。

 構築される人間関係には「課題指向型」とでもいうべき、個人的関わりを抜きにしたものがある。店員とは商品の中身や価格、配送に限定して会話がされるべきだと感じているだろう。謙虚な問いかけにもこのような状況に応じた適性レベルがある。そして個人的な関係を結ぶ「人間指向型」の人間関係もある。一般的には会社の社長と、平社員が一緒に釣りに行くことはありえないのだが(「どういう関係?」といぶかられる)、こういった境界線が破られることは当然あるし、複雑さが増し文化的多様性が広がるこれからはそれほど珍しいことではなくなるかもしれない。課題指向と人間指向とは、連続体として見られる必要があるのだ。

 個人的なつながりを持つプロセスは、もちろん、それぞれをさらけ出すプロセスでもある。「どこに住んでるの?」と個人的なことを質問するのは、課題指向型から人間指向型に境界線をちょっと押してやることなのだ。相手がそれにどう応えるかは状況次第だし、なにが個人的かは文化によるのだが。そのような踏み込みを成功させるにはやはり信頼が必要である。《他人を信頼するとは、われわれがどんな考えや感情、あるいは意図を示そうとも、相手はこちらをけなしたり、顔をつぶしたり、自信を持って言ったことを利用したりしないと思うこと》(人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則)だったことを思い出そう。これを伝えるための方法は、日々の何気ない行動である。知らない人と顔を合わせても視線を逸らすだけで別に何もしないが、それと同じ対応をされたのでは「認知されていない」と思われてしまう。

 

 

補論:課題指向的構えと人間指向的構えなど

  •  「根本的テスト」は危険人物しか不合格にならないかのような書き方をしたが、実のところ、そんなことはないのではないかと思われる。いわゆる差別もそうだ。つまり支援という社会的通貨を交換する気が起きないような、そんな相手はすべて根本的テストをクリアしない。取引する気にもならない。石ころのように拾って投げることはあっても、話しかけられても無視する。相手からのアプローチを一切受けない。危険人物から逃げるのとは違って、こちらは接触しながらも支援関係には至らない。
  •  職場の人が仲良く話している。気さくに世間話をしてくるあの人も、自分にだけはしてこない。それで嫌われているのではないかと思うかもしれないが、そうとも限らない。あなたが人間指向型の付き合いを求めたとしても、「課題指向的構え」をとっている可能性がある。つまり仕事の話以外はしない、というような。あなたの意志とあなたの振る舞い(構え)が合致していないと齟齬が生じ、思うように支援関係が発展しない。
  •  軽い雑談はどのようなタイミングでなされるのか? どのような内容なら許されるのか? そしてもちろん、こうしたことも普段の挨拶とか、挨拶にちょっと付け加える「今日は暑いですね」といったような一言が効いてくる。自分なりの「人間指向的構え」の表現を見つけないといけないし、実は文化的には、挨拶に付け足すちょっとした一言などでお決まりのパターンが定まっているのかもしれない。
  •  人間関係は非常に大事なことだがありとあらゆる人間に好かれることはできない。というより、数十年かけてじっくり行けばどんな人間にも好かれるようになるはずだが、そこまでして関係を築く必要は非常にまれなものだろう。そこまで極端でなくとも、世の中にいる「仲良くなりたい」人間が多ければ多いほど、投資額は大きくなる。人間関係に関する理論は、人間関係をある程度まで放棄する術を教えるものでもあるはずだし、実はむしろこのためにこそ、この記事はある。