第七章 ズ~イ伴現象
シンボルは、シグナルを濾過して活性化する。これが結果的に、動物が密接に世界と関わることを可能にしている。成熟した人間は適切な場面で適切に反応することができるが、それは長年写し取って来た外界の現実性を整理してきた結果である。
ここで「Xの現実性を整理する」とは、Xの存在をどの程度信じるか、何かを自分や他人に説明するときに躊躇なくXの概念に頼れるかどうかについて、揺るぎない結論に達していることを意味する。
記事に「幽体離脱」などと書いてあったときに読む気が失せるならば、あなたはその現実性を疑わしいものだと感じているということだ。とはいえ、幽体離脱といった現象を熱烈に信じている人もいる。あるいは、あるあると言われていたものがなかったりもする。これらの現実性をすべて整理するのは並大抵の仕事ではない。
ところでこの世の中のものは現実/現実でないとキレイにわかれるのだろうか。というより、分かれてもらわないと困るというほうが適切に違いない。
南極が実際にあるかどうか、行ったことはないが、どうやらあるらしいことを現実として受け止めている。南極以前に、自分に臓器があることも見たことはないくせに、私たちは知っているようだ。いつか自分が死ぬことも知っている。いろいろなタイプの理由からそう信じており、複雑に連動する信念体系を作り上げている―――これらの「確信」の源はなんなのか? それはやはりシンボルだ。頻繁に活性化されるものほど、現実的に思えてしまう。だからもっとも現実的なものは「わたし」なのだ。
随伴現象というのがある。それは《小さな事象がたくさん集まった結果生じる、集合的でありながら単一に見える現象のこと》(p.132)である。《言い換えれば、随伴現象とは、それ自体は決して錯覚ではない小規模な事象が数多く集まって生まれる大規模な錯覚》(p.132)だ。この話は「わたし」に行きつこうとするものだが、「わたし」が存在しないと言いたいわけではない。それはたしかにある。
第八章 奇妙なループの狩猟旅行
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