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にんじんと読む「現象学ことはじめ」🥕 第一章 第二章

第一章 数えること

  •  いったい「なぜ」「何が」「どうなって」いるのか。事象の根拠、本質、構造。それは現実問題「何が必要か」「何が役に立つのか」にアプローチすることでもある。
  •  何かを見ているということと、見えている何かは区別されなければならない。言ってみれば、ペンが見えているからといってペンが存在するとはかぎらない。喜んでいることと、喜びの感情は区別される。これは「心の働き」と「心の内容」の区別である。
  •  心の働き=意識作用はいくつかに区別される。何かを判断したり、見たり、思い出したり。自分が授業をしっかり聞いているのか、上の空なのかも。その心的作用の起こっているあいだにも作用の仕方の違いに気づく。これは意識しているのを意識しているという、いわば自己意識。どんな意識作用にも自己意識が絡んでいるなら、意識のいわば「無意識」は取り扱えなくなってしまう。(→無意識の取り扱いは?)
  •  ケーキを数える。それは六つあった。この「六つ」という意識内容は「数える」という意識作用によって構成されている。一般に、《すべての心の活動は「意識作用による意識内容の構成」によって成り立っている》(p.27 現象学ことはじめ 第2版)。
  •  数えることは「ケーキ」というまとまりを把握することによって始まる。ここに感性的綜合と、それと土台にしたカテゴリー的綜合という意識作用の区別がある。

 

第二章 見えることと感ずること

  •  知覚と感覚はなにが違うのだろう。
  •  フクロウの置物にはさまざまな「見え」があり、それが一つ一つ現れることを「射映する」といい、個々の現われを「射映」という。フクロウには見えている側と、見えていない背後もある。たくさんの側面が一つの対象として取りまとめられていること。この取りまとまりを綜合という。この綜合自身、ひとつの働きである。この綜合が一体どのように作り出されているのか、そしてその射映がどう成り立っているのかも現象学は問題にする。
  •  見える側が与えられているのと同じぐらい、見えていない側も与えられている。けれどその与えられ方はやっぱり違う。服の裏に「バカ」と書いた紙を貼りつけられているかも。でもそれを見て「えっ」と思うのも、見えていない側が与えられていたからこそ。見えていなかったものを確認してそれが満たされたとき、「充実する」という。
  •  意識というのは、そうと気づかれる以前に既に何かに向かってしまっている。これを意識の「志向性」という。でもそれはサーチライトではない。サーチライトは照らそうとするものを照らす。だが意識は勝手に現れる。既にある。意識は主観でも、客観でも、どちらにも属さない。「心つまり主観が意識作用というサーチライトで客観を照らし、意識内容を作り出す」というように理解してはならない。主観/客観という構図からこのように志向性によって逃れ出ることを「現象学的還元」と呼ぶ。
  •  フクロウの像を触ってみたら、冷たかったりする。この冷たいというのは視覚とはちょっと様子が違うようだ。それは射映を通して与えられているというより、たとえば指先にそのまま与えられている。身体の特定の部位に結びついている感覚を「感覚態」という。もちろん、部位に結び付けられていない感覚もある。どこが痛いのかわからない場合だってあるだろう。結び付けられているときといないときでは、感じが全然違う。この特有の在り方をうまい具合に表現すると、《「感じること」と「感じがあること」とを切り離して考えることができない》(p.46)ということになる。つまり、見間違いはありうるが、感じ間違いはありえない。一方、痛みのある場所を間違うことはありうる。「ただ感じる」「感じたまま」というのはそういう特徴を持っている。というわけでこのスゴい特徴をもっていることで、内在的知覚と外的知覚が区別される。感覚がすごいのはそれが意識に直接ブチ込まれているからで、「外にある」ように感じられている外的知覚とはわけが違う。こういうブチ込まれが、部位との結びつきの前提になっていることを忘れてはいけない。

さて、この章を締めくくるにあたって、感覚と知覚の違いを整理しておきましょう。

(1)「何色」、「何の痛み」というように知覚される以前の、「見られているままの色」、「感じられているままの痛み」という感覚の領域があるということ。

(2)感覚は内在的知覚とも呼ばれ、それが「あること」は疑いえないが、外に知覚される物が、「あること」は保証されていないこと。

(3)空間的な物の知覚の場合に働く一連の射映というあり方は、感覚にはあてはまらないこと。

(4)感覚である色の広がりは、感覚素材のまとまりであり、感覚である痛みの持続も同様、感覚素材の持続的なまとまりである。そのとき、それらの感覚素材の質がそれとして区別されており、それぞれのまとまり方にも秩序があり、その秩序が明らかにされねばならないこと。

現象学ことはじめ 第2版