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にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 第三章~第八章まで

第三章 勇敢であることへの躊躇い

 フィリップ・アリエスは「従順な死」から「隠された死」への変化を「嘘の始まり」と呼んだ。隠された死の重要な要素は””死にかかっている人間にどう事実を隠すかであること””だと云った。そうして重症患者もそれを知りたがらない。

死が近い人間の周囲の行動の多くには感傷と忌避という特徴がある。

現代の死に方: 医療の最前線から

 家族は本人に死を隠し、希望を与えるために医療効果をわざとらしく話す。医師は現実をわかっているが、それでも希望を失わせないために患者に嘘をつく。こうして《死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界》(p.73現代の死に方: 医療の最前線から)に住むことになる。

 

第四章 貧しき者の最後

第五章 死亡学(デソロジー

 私たちのほとんどが死ぬのは急性期病院だが、そこには安らぎや礼儀正しさなどない「尊厳死」とは程遠い現場である。近年、そんな現場でもホスピスの規則を採用しようという動きがあり、アイルランドの『病院での終末期医療の基準(Quality Standards for End-of-Life Care in Hospitals)』という方針書などが挙げられる。この方針書のロゴマークが病棟に掲げられると職員や訪問者に閑静と礼儀を守るように注意を促すことになる。とはいえ、現地からは効果の乏しさを指摘されているのだが。他にもリバプール・ケア・パスウェイ(LCP)というのもある。死の床にある患者の医療の指針である。ところがLCPを適用されると後戻りできないうえに、「飲食の中止」を促すものだと一般に理解されており非難を浴びた。死にかかっている人間に栄養をとらせてもあまり効果はないが、それでも食べることには象徴的な意味がある。とはいえ、無駄な医療をすることへの歯止めにはなったが、やはり人々の不安は払しょくできなかった。

 ICU(集中治療室)は一般病棟と空気がまったく異なる。いつもサポートを受けられるし、苦痛をやわらげる麻酔も得意だ。だから《ICUで終末を迎えるのは最悪の病院死ではないだろう》(p.92)。だがほとんどの死は一般病棟で起きる。

 じゃあ自宅で死ぬのはどうだろう。一つの理想にはなっているが、病気による失禁・意識の混濁・恐怖・苦痛の負担を自宅では対処できない人は多い。

私は急性期病院で数多くの死を見て来たので、自分の時が来たら、ホスピス医療を心から受け入れてメアリーマウント・ホスピスの穏やかな医療に身を置くつもりである。自然治癒療法と運動療法を喜んで受け入れるつもりでいる。体力があれば、趣味の教室にも出たい。神に祈りもする。モルヒネが必要になればすぐに頼む。だが、医師に自分の抱える不安について尋ねたり、自分の心に共感を求めたりはしない。

現代の死に方: 医療の最前線から

 

第六章 有名人癌病棟

第七章 コントロールへの情熱

 

第八章 哲学するとは、死に方を学ぶこと

昔から(ほぼ変わりのない)哲学の主張は、死を心静かに受け入れる心構えである。ソクラテスセネカは、死を恐れてはならず、つねに念頭に置くことで恐怖に打ち勝てると説いた。私はそう思ったことはない。

現代の死に方: 医療の最前線から 下線部「変わらのない」になっている(初版)

 

 教養があろうがなかろうが、死について考えていようがいまいが、悲惨な死から逃れることはできないし、逃れることができる者もいる。